寺島良安の墓~医史跡番外編~
- 2015/03/13
- 18:16
寺島良安?の墓(増福寺/大阪市天王寺区生玉寺町5-24)
『和漢三才図絵』の著者として有名な寺島良安は、正徳・享保年間に活躍した人であることは分かっているが、正確な生没年は不明で、謎の多い人物である。
羽後能代の問屋(一説に船問屋)・尾張屋に生まれ、商売の株を売って大阪に出、伊藤良玄に本草・医学を学んだという。
大阪高津宮の北に住し、和気仲安の門人となって、御城入医官となり、法橋に叙せられた。
『和漢三才図絵』には、当時官学の棟梁であった林鳳岡が序文を寄せている。
写真の墓碑は、昭和14年に増福寺の本堂修築の際、その床下から「良安妻墓」と共に出てきたもので、郷土史家の東田吉児氏は寺島良安の墓と推定した。
しかし、同寺は明和8年(1771)の6月に火災に罹って、過去帳其の外悉く焼亡した為、この二基の墳墓については詳細が判らず、生没年はおろか法橋とも寺島とも彫られていないので、寺島良安とただちに結び付ける根拠は薄弱に思われる。
そこで増福寺の良安墓が寺島良安のものかどうか三変筮にて占い、得たのは山天大畜の初爻であった。
もとより周易はこのような占的に適合しにくい構造を持っており、判断に迷ったので、二遍筮(後述)にて筮して、今度は山沢損を得た。
面白い得卦である。
共に上卦は艮であり、艮には墳墓の象がある。
そして下卦の兌と乾はどちらも五行に直すと金であるが、金の色は白であり、また金は堅いものを当てはめ、この場合は白くて堅いものであるから、骨であろう。
山沢損も山天大畜も墳墓の下に骨あるの象であるから、占的に合致していよう。
また、三変筮の山天大畜は得卦が初爻であって、墳墓の下の初爻の骨を指している。
大畜の彖伝には「大いに正しきなり」とあり、山沢損の彖辞には「二簋もって享すべし」とあって、この二簋は二基で、夫妻の二基の墳墓を言ったものではあるまいか。
とすれば、この増福寺の良安墓は、やはり寺島良安の墓なのではないかという気がする。
また、二卦ともに大離の似体となっていることも目を引く。
離火中空の意を採ることも考えられるが、素直に離火の意を採ればまた寺島良安の真墓と見做して良いのではなかろうか。
天火同人のような卦を得ていれば、もっと確信を持つことが出来るのだが、もとより周易はこのような占的に適した占法でないこともあり、あとは読者諸賢がそれぞれ筮してみて頂きたいと思う。
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