頑なだった広瀬先生
- 2015/07/10
- 19:17
広瀬先生は、とてつもなく意固地で頑なところがあって、それが先生を孤高たらしめていたとも言える。
御自身の死期を悟った紀藤元之介先生は、『実占研究』の発行を広瀬先生に託したいと思われていたというが、孤高の達人はそれを頑なに拒絶、350号を数えた『実占研究』も紀藤先生の逝去と共に廃刊を余儀なくされたという。
先生は酒を一滴も呑まれなかった上、肉も召し上がらず、食生活は準ベジタリアンであったから(魚は少量食べておられたらしい)、人付き合いにはこれも俄然障害になってくる。
更に生来の意固地が加わるから、実占研究会でも同門との付き合いをほとんどされなかったらしい。
あまりの頑な態度を見かねた人が、
「そんなに頑なにならずに、もっと心を開いて皆と御付き合いしましょうよ」
と気を利かせて心を解きほぐそうとしたら、更に態度を硬化させた、というのは紀藤先生の御子息の弁である。
また、易学供養塔護持会は年一回11月に四天王寺で法要を行って来たが、先生はただの一度も参列されなかった。
ところが、先生は恐らくは供養塔への参拝記録保持者であって、毎週欠かさず参拝されては御花を供えておられたらしい。
先生に初めて御目にかかった際、その話題に少し触れ、先生の陰徳を称賛したら、何故かそれ以来、ぱったり参拝の気配が途絶えた。
実に天の邪鬼であるが、広瀬宏道とはそういう先生であった。
また、先生はストレートな頼みごとには絶対に首を縦に振られなかった。
私も揲筮を見せて欲しいとか、一緒に記念写真をとか、申し出てみたが、即座に一蹴されるのが常であった。
しかし、ある時こんなことがあった。
先生の御趣味が日本画を描くことらしいと小耳に挟んだ私は是非作品を拝見したいと思ったのだが、どうせまた頑なに拒否されるに違いないと思ったので、
「拝見したいとは思いますが、見せたくないですよね、きっと。見せるのは嫌なんでしょうね」
と言ったら、
「ではお見せしましょう」
とすぐに見せて下さった。
広瀬先生はこんな人だったのである。
御自身の死期を悟った紀藤元之介先生は、『実占研究』の発行を広瀬先生に託したいと思われていたというが、孤高の達人はそれを頑なに拒絶、350号を数えた『実占研究』も紀藤先生の逝去と共に廃刊を余儀なくされたという。
先生は酒を一滴も呑まれなかった上、肉も召し上がらず、食生活は準ベジタリアンであったから(魚は少量食べておられたらしい)、人付き合いにはこれも俄然障害になってくる。
更に生来の意固地が加わるから、実占研究会でも同門との付き合いをほとんどされなかったらしい。
あまりの頑な態度を見かねた人が、
「そんなに頑なにならずに、もっと心を開いて皆と御付き合いしましょうよ」
と気を利かせて心を解きほぐそうとしたら、更に態度を硬化させた、というのは紀藤先生の御子息の弁である。
また、易学供養塔護持会は年一回11月に四天王寺で法要を行って来たが、先生はただの一度も参列されなかった。
ところが、先生は恐らくは供養塔への参拝記録保持者であって、毎週欠かさず参拝されては御花を供えておられたらしい。
先生に初めて御目にかかった際、その話題に少し触れ、先生の陰徳を称賛したら、何故かそれ以来、ぱったり参拝の気配が途絶えた。
実に天の邪鬼であるが、広瀬宏道とはそういう先生であった。
また、先生はストレートな頼みごとには絶対に首を縦に振られなかった。
私も揲筮を見せて欲しいとか、一緒に記念写真をとか、申し出てみたが、即座に一蹴されるのが常であった。
しかし、ある時こんなことがあった。
先生の御趣味が日本画を描くことらしいと小耳に挟んだ私は是非作品を拝見したいと思ったのだが、どうせまた頑なに拒否されるに違いないと思ったので、
「拝見したいとは思いますが、見せたくないですよね、きっと。見せるのは嫌なんでしょうね」
と言ったら、
「ではお見せしましょう」
とすぐに見せて下さった。
広瀬先生はこんな人だったのである。
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