広瀬先生の美学
- 2015/07/13
- 18:45
広瀬先生は戦後絶えて久しい第一級の風流人で、見えないようなところの隅々にまで、独自の美学が光っている、という話を聞いたのは、確か紀藤先生の御子息からだったと思う。
何気ない供花にも、花言葉など必ず何らかの根拠があって選ばれていたらしい。
私のように横着な者は見えないところなど即手抜きの対象であるが、先生は細部まで納得しないと気が済まない性格らしかった。
私は最晩年の先生を少し窺い見る程度に過ぎなかったが、それでも先生の非凡なセンスを感じた点が幾つかないではない。
今は取り壊された先生の旧宅の表札は平仮名で「ひろせ」と書かれていたが、これがまた何とも言えない風流な表札だった。
玄関先には常に綺麗な御花が花瓶に生けられていて、これは「道行く人に楽しんでもらえたら」という先生のお気持ちによるものだったらしい。
御年賀も一枚一枚に直筆の干支を添えておられたが、長年教師をされていた先生だから、枚数もかなりの量だったのではないかと思う。
先生の非凡な風流力を思うに、人付き合いを頑なに拒絶されたのは、この辺りにも理由があったのかもしれない。
易者の集まりなど、要するに安酒片手に自慢話に花が咲く典型的な自営業者の集まりだし、先生の風流を理解するような人はまず居なかったはずだ。
私も含めて凡俗との関わりは、先生には耐えがたい苦痛だったように思われる。
先生は亡くなる少し前に木造二階建ての御自宅を取り壊されて、平屋に建て直されたのだが、これがまた何とも変わった公民館のような外観であった。
先生は晩年に財産のほとんどを色々なところに寄付しておられたが、最後には御自宅も大阪市に寄付するおつもりだったようだ。
御遺族から窺った御話では、御自身のお住まいにとても愛着を持たれていたらしく、地元の人の憩いの場として公的に活用してもらおうと御考えだったらしい。
先生は最期まで粋な計らいを忘れない人だった。
何気ない供花にも、花言葉など必ず何らかの根拠があって選ばれていたらしい。
私のように横着な者は見えないところなど即手抜きの対象であるが、先生は細部まで納得しないと気が済まない性格らしかった。
私は最晩年の先生を少し窺い見る程度に過ぎなかったが、それでも先生の非凡なセンスを感じた点が幾つかないではない。
今は取り壊された先生の旧宅の表札は平仮名で「ひろせ」と書かれていたが、これがまた何とも言えない風流な表札だった。
玄関先には常に綺麗な御花が花瓶に生けられていて、これは「道行く人に楽しんでもらえたら」という先生のお気持ちによるものだったらしい。
御年賀も一枚一枚に直筆の干支を添えておられたが、長年教師をされていた先生だから、枚数もかなりの量だったのではないかと思う。
先生の非凡な風流力を思うに、人付き合いを頑なに拒絶されたのは、この辺りにも理由があったのかもしれない。
易者の集まりなど、要するに安酒片手に自慢話に花が咲く典型的な自営業者の集まりだし、先生の風流を理解するような人はまず居なかったはずだ。
私も含めて凡俗との関わりは、先生には耐えがたい苦痛だったように思われる。
先生は亡くなる少し前に木造二階建ての御自宅を取り壊されて、平屋に建て直されたのだが、これがまた何とも変わった公民館のような外観であった。
先生は晩年に財産のほとんどを色々なところに寄付しておられたが、最後には御自宅も大阪市に寄付するおつもりだったようだ。
御遺族から窺った御話では、御自身のお住まいにとても愛着を持たれていたらしく、地元の人の憩いの場として公的に活用してもらおうと御考えだったらしい。
先生は最期まで粋な計らいを忘れない人だった。
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