和田啓十郎の墓~長野漢方史跡~
- 2015/07/20
- 22:30
和田啓十郎墓(和田家一族専用墓地/長野市松代町牧島680)
『医界之鉄椎』の著者・和田啓十郎(1872~1916)については、以前日本橋に建てられた漢方医学復興之地と題する顕彰碑を御紹介したことがある。
和田啓十郎は、明治5年に長野県松代町に生まれ、号は手真、堂号を治本堂といった。
なかなか治らなかった姉の病が漢方医の治療により快癒を得たことが将来漢方医を志すきっかけになったという。
松代藩に仕えた家系であったが、明治維新によって経済状況は苦しくなり、少年時代の啓十郎は、呉服商に奉公に出されることになった。
しかし、向学の念捨てがたく、戻って松本尋常中学校(現・松本深志高等学校)に入学し、明治25年には日本医科大学の前身である東京医学専門学校・済生学舎に進んだ。
同年、神田の古書店で、吉益東洞の『医事或問』を入手してその医学に感銘を受け、漢方医の多田民之助に師事して漢方を学ぶ。
明治29年、御徒町で開業し、同32年には更級郡稲里村(現在の長野市稲里町付近)に医院を移転。
この頃から古典の研究と執筆に力を入れるようになる。
明治37年に日露戦争が勃発すると、医院を閉鎖して、軍医に志願し、参戦した後、再び東京は日本橋浜町で開業した。
主著『医界之鉄椎』は、当初、引き受ける出版社がなく、生活を切り詰めて借金し、ついに明治43年に1000部を自費出版した。
初版は売れ行き好調で、大正4年には増補版を刊行、漢方復興運動は着実な進展を見せたが、翌大正5年に啓十郎は45歳という若さでその生涯を閉じた。
台石と水鉢には堂号である「治本堂」の三字が刻まれている。
啓十郎の墓所を紹介した多留淳文先生の「医家先哲墓参誌(第一回)」(『漢方の臨床』第45巻・第12号所収)では触れられていないが、墓所のすぐ傍に、明治17年に建てられた「族徳碑」と題する石碑があり、それによると和田氏は佐久間象山の学統のようである。
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浅田宗伯の顕彰碑と同じく、啓十郎の墓所もまた番地での検索ではヒットしないようなので、地図をあげておくことにする。
名立神社鳥居の斜め向かいなので、神社を目指して行けばすぐに見つかるだろう。
来年は和田啓十郎没してちょうど100年である。
今日の漢方界は、泉下の啓十郎の眼にどう映るのであろうか。
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