名古屋玄医と易学
- 2015/08/14
- 11:55
私の関心の中心は、蒼流庵随想の副題にある通り、漢方と易学である訳だが、江戸時代の医学史を鳥瞰するに、易学は時代が下るにつれて重んじられなくなっていったのではないかという気がする。
明確な線引きをすることは難しいが、易理を基盤とする医説を排撃した代表格は何と言っても吉益東洞で、その後古方派というものが大きな潮流を生み出して行くにつれ、陰陽五行を重視する後世方派の地位は相対的に低くなって、易学の地位もまた医家の間で低下して行ったようだ。
これは何も吉益東洞の影響とだけ言うこともできず、近代精神の萌芽がこういうところにも表れていると見ることも出来よう。
しかし、日本漢方古方と言っても、少し遡れば、後藤艮山の「艮山」など、大成卦としての艮為山なのか、小成卦としての艮卦なのかは判らないが、やはり易を意識して名乗った号であろうし、後に古方派の始祖(本人にはそんな意識はなかったのだろうが)とされる名古屋玄医は易理に詳しかったことが知られ、周易の註解にも手を付けている。
加藤謙斎の師は、玄医の門人の臨節子であったというが、「臨節子」というのも易卦の地沢臨と水沢節から来たものに違いない(「謙斎」も地山謙に由来するものと思われる)。
また、浄福寺にある玄医の墓碑の向かいには、玄医の子・玄篤の門人である菅鳴鶴(1699~1772)の墓碑が現存するが、この「鳴鶴」というのも易卦・風沢中孚二爻の辞に由来するものである。
玄医の『金匱要略註解』に付された門人・奥三璞の序には「易の道たる陰を抑へ、陽を扶く。固に聖人の微意にして素難の要法なり」とあり、ここに玄医一派の態度を見てとることが出来よう。
こういったこともあって、四天王寺に建立された易学供養塔には、名古屋玄医が合祀されているのである。
明確な線引きをすることは難しいが、易理を基盤とする医説を排撃した代表格は何と言っても吉益東洞で、その後古方派というものが大きな潮流を生み出して行くにつれ、陰陽五行を重視する後世方派の地位は相対的に低くなって、易学の地位もまた医家の間で低下して行ったようだ。
これは何も吉益東洞の影響とだけ言うこともできず、近代精神の萌芽がこういうところにも表れていると見ることも出来よう。
しかし、日本漢方古方と言っても、少し遡れば、後藤艮山の「艮山」など、大成卦としての艮為山なのか、小成卦としての艮卦なのかは判らないが、やはり易を意識して名乗った号であろうし、後に古方派の始祖(本人にはそんな意識はなかったのだろうが)とされる名古屋玄医は易理に詳しかったことが知られ、周易の註解にも手を付けている。
加藤謙斎の師は、玄医の門人の臨節子であったというが、「臨節子」というのも易卦の地沢臨と水沢節から来たものに違いない(「謙斎」も地山謙に由来するものと思われる)。
また、浄福寺にある玄医の墓碑の向かいには、玄医の子・玄篤の門人である菅鳴鶴(1699~1772)の墓碑が現存するが、この「鳴鶴」というのも易卦・風沢中孚二爻の辞に由来するものである。
玄医の『金匱要略註解』に付された門人・奥三璞の序には「易の道たる陰を抑へ、陽を扶く。固に聖人の微意にして素難の要法なり」とあり、ここに玄医一派の態度を見てとることが出来よう。
こういったこともあって、四天王寺に建立された易学供養塔には、名古屋玄医が合祀されているのである。
菅鳴鶴墓(浄福寺/京都市上京区笹屋町2丁目)
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