古易館跡を訪ねて
- 2015/10/04
- 20:05
白蛾が紺屋町に開塾した頃は、荻生徂徠没して十数年、その謦咳に接した門人達が大いに活躍して江戸では古文辞学が一世を風靡していた。
若き日の白蛾は之に抗すべからざる事を悟って儒業を捨て、放浪の旅に出る。
白蛾が放浪の旅に出て以後、京都に定住するまでの十数年間、具体的に何処で何をしていたのか、はっきりしたことは判らない。
ただ、白蛾が妻に迎えたのは河内国若江の一向宗信願寺(現在若江に信願寺という名の寺院は見当たらない。早くに廃寺となったものか。或いは小若江に真願寺というのがあるので信は真の誤りか)の娘であったというから、京都~大阪間を行き来して過ごしたであろうことは想像出来る。
白蛾の足跡がはっきりし出すのは、宝暦元年(1751)37歳の時で、衣棚押小路下ル所に古易館を開いており、開館二年後に白蛾の処女作である『老子形気』が出版され、翌年には有名な『易学小筌』が刊行された。
こちらも紺屋町同様、白蛾の痕跡は残されていないが、さすがに京都だけあって、紺屋町よりも雰囲気はそれなりにあるようだ。
白蛾は何度か居を移しており、奈良場先生作成の年譜によると、知恩院新門前袋町や四条堺町にも住んだ時期があったらしい。
上に掲げたのは、『平安人物志』の安永4年版(左)と天明2年版(右)で、一見別々の住所に思えるが、実際には東西どちらの通りから見るかだけの違いに過ぎず、同一住所のようだ。
左は六角通を東洞院通の交差点から眺めたもので、右は六角通を高倉通との交差点から眺めたものである。
カフェや料理屋の他、税理士事務所などがあったが、ここにも残念ながら易や儒学に関するものは残されていない。
せめて趣のある古書店の一軒でもあったら嬉しかったのだが。
若き日の白蛾は之に抗すべからざる事を悟って儒業を捨て、放浪の旅に出る。
白蛾が放浪の旅に出て以後、京都に定住するまでの十数年間、具体的に何処で何をしていたのか、はっきりしたことは判らない。
ただ、白蛾が妻に迎えたのは河内国若江の一向宗信願寺(現在若江に信願寺という名の寺院は見当たらない。早くに廃寺となったものか。或いは小若江に真願寺というのがあるので信は真の誤りか)の娘であったというから、京都~大阪間を行き来して過ごしたであろうことは想像出来る。
白蛾の足跡がはっきりし出すのは、宝暦元年(1751)37歳の時で、衣棚押小路下ル所に古易館を開いており、開館二年後に白蛾の処女作である『老子形気』が出版され、翌年には有名な『易学小筌』が刊行された。
衣棚押小路下ル所
こちらも紺屋町同様、白蛾の痕跡は残されていないが、さすがに京都だけあって、紺屋町よりも雰囲気はそれなりにあるようだ。
『平安人物志』(国際日本文化研究センター所蔵)より
白蛾は何度か居を移しており、奈良場先生作成の年譜によると、知恩院新門前袋町や四条堺町にも住んだ時期があったらしい。
上に掲げたのは、『平安人物志』の安永4年版(左)と天明2年版(右)で、一見別々の住所に思えるが、実際には東西どちらの通りから見るかだけの違いに過ぎず、同一住所のようだ。
左は六角通を東洞院通の交差点から眺めたもので、右は六角通を高倉通との交差点から眺めたものである。
カフェや料理屋の他、税理士事務所などがあったが、ここにも残念ながら易や儒学に関するものは残されていない。
せめて趣のある古書店の一軒でもあったら嬉しかったのだが。
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