北陸吉益家墓所
- 2015/10/12
- 18:38
北陸吉益家墓所(野田山墓地)
9月末、新井白蛾生誕祭のため金沢の野田山に出向いた際、偶然にも北陸吉益家の墓所を見つけた。
金沢にあることだけは聞き知っていたが、さして気にも留めていなかったこともあって、野田山にあるということを知らずにいたから、意表を突かれて随分驚いた。
吉益東洞の嗣子・南涯は、有名な天明8年(1788)の大火で被災し、大阪は船場伏見堺筋の仮住居に移って医業を行い、43歳のとき、腹違いの弟である嬴斎(1767~1816)に大阪の寓居を譲って自らは京都に戻ったが、この嬴斎が大阪吉益家の祖である。
南涯には男子がなかったので、門人の青沼道立(1786~1856)に三女を娶らせて家業を継がせ、この道立は北洲と号して、よく遺業を奉じたが、のち養子の復軒(1819~1893)に家業を任せて自らは金沢に移り、加賀藩医となった。
北洲は1845年に加賀藩医に迎えられているが、数百名の門下を擁した北洲が何故に都落ちして僅か百石の薄給で加賀藩医となったのか、直接にその理由を知りうる資料は残されていないものの、加賀藩は曲直瀬正淋(1565~1611)が藩医に招かれて以後曲直瀬流の後世方が定着し、17世紀の後半になると稲生若水を儒者として招いたり、全国に先駆けて蘭方医学を採用したりと、先進的な医学が生まれ出ようとする機運があり、北洲が藩医に迎えられた頃はその真っ只中で、また、「吉益家門人録」に見られる如く、加賀藩は吉益流の勢力が弱い地域で、吉益家も加賀藩もそれを意識しての策だったのではないかと、金沢の多留惇文先生は推測されている。
北洲の養子となった西洲(1819~1866)もまた加賀藩医として活躍した。
東洞らの墓所がある京都の荘厳院にも北洲や西洲の別号と思われる西園らの墓碑があるのだが、どうもそれらは参り墓の類で、真墓はこの野田山の墓碑ではなかろうか。
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