宮崎市定先生の墓
- 2015/10/21
- 18:39
京都宮崎家之墓(長野県飯山市静間)
七月の或る日の早朝、車を飛ばして長野県は飯山市の静間へ向かった。
目的は宮崎市定先生の墓参である。
庵主は支那学の専門家ではないから、それほど多くの文献に眼を通している訳ではないが、先生の著作の大半は読破しているので、かかる分野では最も影響を受けていると言って良いかもしれない。
そんな訳で、先生の墓参はかねてからの悲願であったが、近代人の墓所というのは江戸期の学者などと違って、文献で紹介されること少なく、正確な場所を突き止めるのが難しい場合が多いので、なかなか実現を見ずにいた。
今夏は、先に紹介した和田啓十郎の墓所や浅田宗伯の顕彰碑を見たかったこともあり、行き当たりばったりで宮崎先生の墓参を試みたのである(墓所が飯山市の静間にあることだけは把握していた)。
静間に着いたのは、午前9時頃で、まずは先生の生家に向かった。
運よく先生の甥に当たる宮崎市郎さんが応対して下さり、御親切に軽トラで墓所まで案内して下さることになった。
納骨の際は、一番弟子である礪波護先生(1937~)など来られたらしいが、最近では先生の教え子もその多くが鬼籍に入られたこともあって、京大関係者の墓参もほとんど無いそうだ。
没後しばらくは「宮崎市定墓所こちら」のような案内板を建てようかと思ったこともあったそうだが、そうこうするうちにそのままになってしまったらしい。
田舎の方へ行くと、霊園というのがあまりなく、一族の墓地のみ山中にぽつんとあって、場所が把握できないことがままあるが、宮崎氏墓所も例に漏れず、静間の山裾にひっそりとあって、グーグルアースなどでは全く確認出来ない。
先生の墓碑は、「京都宮崎家之墓」と刻まれ、横に建立者である先生のお名前が刻まれていた。
市郎さんには、一般には知られていない先生のエピソードなどを伺うことが出来、御土産に御野菜や自家製の御味噌などを頂戴し、大変有難かった。
宮崎市定顕彰碑
墓所の隅には、先生の没後に市郎さんが建立された顕彰碑があって、『東洋的近世』初版のはしがきの文章が引用されている。
顕彰碑裏面
裏面には先生の略歴が刻まれている。
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