土塔
- 2016/01/10
- 13:48
頭塔は、もと「土塔」だったものとされているが、この土塔は堺市にもある(他には岡山の赤磐郡に類似の遺構があるらしい)。
この土塔は、奈良時代の僧・行基(668~749)が建立したとされる四十九院のひとつ大野寺の仏塔で、『行基年譜』には神亀4年(727)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵図」(重要文化財)にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれている。
堺市の土塔は、平成16から同20年にかけて整備工事が行われ、現在は「土塔公園」として一般に開放されている。
石仏などがそのまま残っている奈良の頭塔と違い、こちらはそれほど史跡臭はなく、公園は誰でも気軽に利用出来るのが嬉しい。
昭和62年の発掘調査によると、先ず方形の基壇(一辺53.1m)があり、その上に12壇の土壇が築かれ、風雨から土壇を保護ため全体に6万枚にも及ぶ瓦を葺き、最上壇には木造の八角堂が建てられていた痕跡があることが判明している。
発掘調査では、文字が記された創建当時の瓦が約1300枚発見されており、文字の大半は人名であるという。
刻まれた人名は、行基と共に土塔を建立した「知識」と呼ばれる人々だと考えられているが、人名から推測されるところでは、僧尼だけで無く、男女を問わず、庶民から氏族まで広範囲に及び、当時の仏教信仰就中仏教信仰の民間への浸透を窺わせる貴重な資料でもあるようだ。
公園内からは、須恵器の窯跡も見つかっている。
発見された二か所の窯跡は、古墳時代のもので、土塔創建よりも更に時代を遡るものだ。
公園の隅には、土塔地区の土地区画整理事業の竣工を記念して平成10年に建てられた記念碑がある。
この土塔は、奈良時代の僧・行基(668~749)が建立したとされる四十九院のひとつ大野寺の仏塔で、『行基年譜』には神亀4年(727)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵図」(重要文化財)にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれている。
堺市の土塔は、平成16から同20年にかけて整備工事が行われ、現在は「土塔公園」として一般に開放されている。
石仏などがそのまま残っている奈良の頭塔と違い、こちらはそれほど史跡臭はなく、公園は誰でも気軽に利用出来るのが嬉しい。
かっちょいい門構え
これが土塔だ!!
昭和62年の発掘調査によると、先ず方形の基壇(一辺53.1m)があり、その上に12壇の土壇が築かれ、風雨から土壇を保護ため全体に6万枚にも及ぶ瓦を葺き、最上壇には木造の八角堂が建てられていた痕跡があることが判明している。
発掘調査では、文字が記された創建当時の瓦が約1300枚発見されており、文字の大半は人名であるという。
刻まれた人名は、行基と共に土塔を建立した「知識」と呼ばれる人々だと考えられているが、人名から推測されるところでは、僧尼だけで無く、男女を問わず、庶民から氏族まで広範囲に及び、当時の仏教信仰就中仏教信仰の民間への浸透を窺わせる貴重な資料でもあるようだ。
公園内からは、須恵器の窯跡も見つかっている。
発見された二か所の窯跡は、古墳時代のもので、土塔創建よりも更に時代を遡るものだ。
公園の隅には、土塔地区の土地区画整理事業の竣工を記念して平成10年に建てられた記念碑がある。
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