内藤湖南の墓
- 2016/01/15
- 18:56
内藤湖南墓(法然院/京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30)
戦前の日本を代表する東洋史学者であった内藤湖南(1866~1934)は、慶応2年に南部藩士・内藤調一(1832~1908)の次男として陸奥国毛馬内村(現秋田県鹿角市)で生まれ、名は虎次郎、字は炳卿といい、湖南と号した。
一般には号の内藤湖南として知られるが、湖南の号は生地が十和田湖の南であることにちなむ。
秋田師範学校を卒業し、22歳で上京、新聞記者・ジャーナリストとして活躍し、1907 年に京都帝国大学文科大学講師に迎えられて東洋史学第1講座を担任、1909 には教授に就任し、1926年には帝国学士院会員となった。
湖南を京都帝国大学に招聘したのは、同じく秋田出身で安藤昌益の発見者としてもその名を残す狩野亨吉であるが、湖南が大学教育を受けていないことを理由に反対する文部省と衝突して亨吉は退官、以後いくら乞われても官職に就くことはなかった。
東洋の諸学に関する膨大な学識を駆使して展開される湖南の斬新で独特な学風は「内藤史学」と呼ばれ、門下からは武内義雄や宮崎市定、神田喜一郎など、世界的な大学者を多く輩出している。
『周易古筮考』を訳出した薮田嘉一郎も、学生時代に湖南の謦咳に接している。
弟子達の筆記した講義録を元に編纂された著作集は、『内藤湖南全集』(筑摩書房/1969~1976)として全14巻が刊行されており、著作の幾つかは文庫化もされていて、昨夏には『中国近世史』が岩波文庫に収められた。
該博で知られた湖南は易経についても独自の説を打ち出しており、爻辞は古いおみくじの言葉から来たものであるとし、結婚問題に関するものが帰妹の爻辞となり、裁判に関するものが訟の爻辞になったと考察している。
湖南はそれほど易経に関して多くの言説を残した訳ではないのだが、やはりこの古典は特別な扱いだったようで、嗣子・乾吉氏(1899~1978)の名は言うまでもなく乾為天から採られたものであろうし、法然院にある墓所に参じた際、水塔婆に令孫・泰二氏の名が記されているのを目にしたが、この「泰二」というのも地天泰九二を差したものに違いない。
墓所のある法然院は、金戒光明寺と並ぶ京都屈指のハカマイラーのメッカで、それほど古い墓碑はないのだが、近代の文化人を中心に中々イカした墓碑が多くて、掃苔家の心の琴線に触れるものがある。
たとえば、河上肇(1879~1946)、稲垣足穂(1900~1977)、九鬼周造(1888~1941)、谷崎潤一郎(1886~1965)、福井謙一(1918~1998)、二代目龍村平蔵(1905~1979)などなど。
なお、郷里たる秋田県毛馬内の仁叟寺にも内藤家の墓所があるが、こちらには遺髪が収められており、遺骨は法然院に埋葬されている。
スポンサーサイト