内藤湖南(1866~1934)
大正15年、内藤湖南は60歳定年制にもとづき、京都帝国大学を退官、晩年を京都府瓶原村(現木津川市加茂町例幣)に建てた恭仁山荘(くにさんそう)で過ごした。
奈良時代の一時期、この地域に都が置かれていたことがあり、現在、この恭仁京(くにきょう、くにのみやこ)跡地は国の史跡指定を受けている。
聖武天皇の勅命により、平城京から遷都されたが、都としての完成を見ないまま、わずか三年で造営は中止された。
春日大社に詣でた後、足を延ばして恭仁山荘に向かったのは昨年9月のこと。
公共の交通機関を使うなら、JRの加茂駅からバスが出ている(奥畑線/口畑下車)が、本数が少ないので徒歩で行く方が良いかもしれない(30分ほど)。
場所は稍々分かり難く、上掲写真の舗装された細い道を上がった所が目的地だ。
恭仁山荘入口
昭和58年、湖南の旧蔵書約三万冊と、この恭仁山荘を内藤家から関西大学が譲り受け、山荘はその後大学関係者のセミナーハウスとして利用されていたらしいが、最近消防署から「宿泊施設として不適格」と指摘されたとかで、現在は閉鎖されている。
このことは、共産党の
木津川市議団のブログに記されているが、どうも正確なところがよく分からないらしい。
心の底から内藤湖南に敬服している庵主としては、いつかこの山荘で勉強会のようなものをしてみたいと思っているのだが、これを一筮して沢地萃上。
卦意は占的からして嬉しいところだが、上爻というのが気に食わぬ。
現在は門も閉ざされているらしいが、この時は偶々造園業者が庭の手入れに来ており、中に入れてもらうことが出来たのは思わぬ幸運であった。
ここで晩年の内藤湖南が起居して思索の日々を送ったかと思うと、感慨深いものがある。
何度か手を入れているものと見え、大正15年の建造を思わせるほどの古さは感じられない。
恭仁山荘の一番の見所は、旧態そのままに保存された湖南の書庫である。
湖南は大変な蔵書家として知られ、旧友狩野亨吉と同じくその目利きぶりは天下に知られた。
そのコレクションから、後に国宝に指定されたもの3点、重文に指定されたもの6点を数え、先に少し紹介した『説文解字』の唐代写本の残巻(国宝)は、現在
杏雨書屋が所属している。
また、湖南の収集は多岐に渡っており、例えば、かつて日本経絡学会(現日本伝統鍼灸学会)が影印刊行した『霊枢』の原本は、かつて湖南が所蔵していたものだ。
さすがに文化財的蔵書を仕舞い込んで居ただけあって、ただならぬ重厚感だ。
庭の隅に蓋をされた井戸があるが、これもかつて湖南が使用していたものだろう。
恭仁山荘の門前には、地元の内藤湖南先生顕彰会が昭和62年に建てた顕彰碑があり、碑文は湯川秀樹の実弟・小川環樹(1910~1993)の手になる。
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