「シナ」の語源について
- 2016/02/04
- 18:58
「シナ」という語は、近代の日本人が創作した中国に対する蔑称だとする漠然としたイメージを世間一般の人々は持っているらしい。
少なくとも、英語圏では全て「China」の表記であるから、近代日本人の創作であろうはずはない。
「シナ」なる呼称の語源について、我が蒼流庵随想の読者諸賢には今さら解説の必要も無いものと思うが、日中関係が険悪化している昨今につき、一寸触れておきたいと思う。
結論から先に述べると、「シナ」の語源は始皇帝の「秦」に由来する。
そして、シナの語源を秦の国号に求める説は、古くジェスイット会の宣教師だったマルチン・マルチニ(1614~1661)にまで遡ることが出来るようだ。
宮崎市定によると、シナという言葉は、史上初めて中国を統一した秦が西方に伝わって中国を指す地名「Sin」となり、仏教が中国に入ると此の語が逆輸入され、漢字で「支那」と写されることになったもので、故に中国の仏教徒は誰に憚る所なく、自国を支那と名乗って怪しまないという。
植村清二は、秦がシナの語源として、後世までその名が伝わるにしては、15年という期間は短すぎるとし、秦が滅びた際に、南海郡(広東)の一県令であった趙佗が、桂林・象郡をあわせて独立して王となり、子孫あいついで百年近くもその地に君臨して、漢はこれに南越王の称号を与えているのだが、趙佗やその子孫が、蛮族の名である南越を国号としたかどうかは頗る疑わしく、趙佗はおそらく旧によって秦と称し、そうでなくとも、貿易のために番禺に来集した南方の諸民族は、引き続いてこれを秦と読んだ可能性が高く、そしてやがてその名が遠く西方に伝わったのであろうという。
古来日本では中国を呼ぶのに、主としてその時代の王朝名、つまり唐や明等と呼び、江戸から明治にかけては清王朝の時代であるから清と称する場合が最も多かったが、その清国が滅亡して清なる文字が使えなくなると、代って支那なる名称が一般的に用いられるようになった。
また、江戸時代中期、布教を志して和服帯刀姿で屋久島に単身上陸したジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668~1714)というイタリア人の宣教師がおり、ただちに捕えられて江戸に護送され、新井白石は4回に渡ってシドッティを尋問し、それを基にして『采覧異言』(1713)、『西洋紀聞』(1715)を著しているが、彼は日本人が「漢土」や「唐土」と言っているものを、ヨーロッパ人は「チーナ」と言っていることに注目し、古い漢訳仏典で「支那」と音訳されているものを探し出してこれに当てた。
「支那」という語が意識され出したのはこの辺りからのようである。
谷沢永一の著書で以前読んだのだが、戦前は中国を指すに「支那」を用いるのが標準であったが、初め竹内好が「中国」の語を掲げだし、一般に「支那」が「中国」に取って代わられるのは、吉川幸次郎が著書で用いるようになったのがきっかけであるという。
渡部昇一や谷沢永一等は、現在の共産党政府にのみ「中国」の呼称を用い、歴史的文化的地理的な呼称には「シナ」の語を用いるべきとしている。
蓋し正論であろう。
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