日本漢学史上における僧玄光
- 2016/03/07
- 18:09
私が江戸初期に出た玄光(1630~1698)という学僧の存在を知ったのは、神田喜一郎先生の「日本漢学史上における僧玄光」という小篇(『神田喜一郎全集Ⅱ』所収)によってであった。
この神田先生の小篇によって光を当てられるまで、玄光の存在は我が国の漢学史上においても仏教史上においても、全く忘れられた存在であったと言って良い。
ちょうど師の内藤湖南が富永仲基を発見したようなものである。
もっとも、仲基の場合は、それ以前にも宣長や篤胤が注目しているから、湖南が0から発見したとも言えず、「再発見」とでも表現する方が穏当なのだが、玄光の場合は完全に歴史に埋もれて居たと言って良いと思う。
神田先生が玄光の名を見出したのは、荻生徂徠が伊藤仁斎を非難攻撃するために著した『蘐園随筆』の中においてで、狭量な徂徠が端々でその学問や文章を褒めており、「此方ノ諸儒ノ及バザルトコロ」つまり日本の学者の及ぶ所でなく、中国の学者並みだとして最大級の賛辞を送っているのである。
随筆中では徂徠は玄光の説を駁してはいるのだが、引用している説を読むと、色々と卓見と思われるものが少なくなく、中には清朝の考証学者の説と一致しているものさえあることから、神田先生は興味を持って調べられ、その大略を明らかにされた。
考証学が日本で盛んになるのはずっと後のことであるし、清国でさえ、まだ考証学はようやく萌芽が見えだした頃に過ぎず、玄光の学問的方法がそれらに先んじているのは驚異であろう。
王引之(1766~1834)の或る説などは、150年も早くに玄光の発明するところであった。
玄光に関しては、1995年にぺりかん社から『独庵玄光と江戸思潮』(「日本漢学史上における僧玄光」も収められている)が、翌年には、同社から全著述が収められた『独庵玄光護法集』が出ているので、興味を持たれた方はそれらを紐解かれるが良い。
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