龍光寺
- 2016/03/10
- 19:24
佐賀で生まれた玄光は、幼少の頃から長崎の寺院で育ち、戦乱を避けて渡来した中国人の僧超元(1602~1662)の居た海雲山晧臺寺に入り、超元の帰国と共に同寺を出て以後全国を放浪しているが、その晩年を大阪で過ごし、示寂したのは大東市から生駒へ抜ける峠にあった龍光寺だという。
経寺山龍光寺は敏達天皇(在位572~585)開基の古刹であるというが、度重なる戦火で荒廃し、正保二年(1645)に玄光が再興するも、再び荒廃して、現在は仮本堂と十三重塔などが僅かに残るに過ぎない。
玄光がここで示寂したとすると、かつては無縫塔のようなものがあったのやも知れぬ。
境内の入口近くにある地蔵菩薩立像は市の指定文化財となっている。
なお、玄光はその晩年に摂津の大道寺も再興しているが、こちらは維新後の廃仏毀釈の煽りを受けて廃寺となり、現在は大隅神社(東淀川区大桐5丁目14-81)の境内に「乳牛山大道寺跡」を示す石碑を残すのみである。
龍光寺(大阪府大東市大字龍間1452)
経寺山龍光寺は敏達天皇(在位572~585)開基の古刹であるというが、度重なる戦火で荒廃し、正保二年(1645)に玄光が再興するも、再び荒廃して、現在は仮本堂と十三重塔などが僅かに残るに過ぎない。
玄光がここで示寂したとすると、かつては無縫塔のようなものがあったのやも知れぬ。
境内の入口近くにある地蔵菩薩立像は市の指定文化財となっている。
なお、玄光はその晩年に摂津の大道寺も再興しているが、こちらは維新後の廃仏毀釈の煽りを受けて廃寺となり、現在は大隅神社(東淀川区大桐5丁目14-81)の境内に「乳牛山大道寺跡」を示す石碑を残すのみである。
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