『画相眞傳』(中村文聰編著/悠久書閣・1943年刊)
林文嶺(1831~1907)といえば、“画相”の元祖的存在として有名で、現在入手出来る書籍としては、『林流相法画相気色全伝』(鴨書店刊)、『林文嶺相法伝書』(雪玄堂刊)の二冊があるようだ。
しかし、その実像はあまり知られておらず、『東洋占術の本』(学研刊)では、一頁を文嶺について割くも、生没年すら記載がない有様である。
蒼流庵主人は、系譜上は林文嶺に連なる者であるが、相法は専門外であることから、長らく調査研究の対象としてこなかったが、御法川先生から寄贈された『実占研究』が奇縁となり、林文嶺の調査を始めたのは、2012年の冬であった。
『実占研究』に収められた、故渡辺観岳先生による講演録“日本における相学者”の中に次のような文章を見つけたのが、事の発端である。
「・・・林文嶺は、明治末期、相当有名だったらしい。
坪井信道という幕末の蘭医の門に学んだというから、はじめは医者志願だったのであろう。
が、小学校の教師をしたこともある。と其の著書「画相新編」の序文に出ている。
文嶺は中年の頃、猪飼横州という人について、人相を学んだという。
易における画象、つまり人の顔に出る「画相」を発見したのは、その後であろう。
現在、東京には、林文嶺の直門という人、孫弟子という人が、相当いるのではないかと思われる。
紀藤先生によれば、福田常水氏とか吉村観水氏とか、画相をよく見た人(いずれも故人)で林文嶺の流れではなかったか、とあるが、直門かどうかはともかく、その著書によって、林流の相法「画相をみる」という人が、いまも相当多いだろうと思う。
それまでの相書は、支那の漢文の直訳的なものが多かったが、文嶺は小学教師をした経験から、難解なものをわかりやすく書き、それに自己の実験を加えて、従来の相法を批判したりしている。―― この林文嶺は、明治四十年十二月二十八日に没したが、寿七十七才とあるから、高島嘉右衛門先生と同年輩ぐらいだったと思う。千葉県海上郡三川村、王崎山東円寺という寺に葬られているという。」後に畏友・青木良仁先生から教えられたことであるが、渡辺先生の講演録における此の箇所は、『新撰易学小筌』松田定象著からの引用であり、文嶺の師・猪飼横州と菩提寺である王崎山東円寺は、それぞれ鶴飼横州と玉崎山東円寺の誤植であることが判明した。
坪井信道の墓(東京・染井霊園)
面白いことに、文嶺の蘭医の師である坪井信道(1795~1848)は、緒方洪庵(1810~1863)の師でもあり、林文嶺と緒方洪庵は兄弟弟子の関係にあるのである(生没年から考えると、文嶺が信道に学んだのは最晩年の筈であり、洪庵と直接の接触は無かったと思われる)。
また、調べてみると、文嶺は単なる小学校の教師ではなく、菩提寺の東円寺から程近い旭市立三川小学校の初代校長であることが判明した。
同小学校は、明治16年の開校(公立萩園小学校附属三川小学校として発足し、二年後に分離独立して公立三川小学校となった。)であるから、文嶺は其の時50歳代であり、若い頃小学校の教員をしていたというよりは、人生の大半を教育者として送ったのではあるまいか。
また、明治政府が教育の普及に力を入れていたこの時代、公立小学校の初代校長に選ばれるということは、地域では相当の名士として知られていたことが窺われる。
或いは、文嶺の写真か肖像画でも残ってはいないかと、同小学校に調査を依頼したが、まもなく校長の石見孝男先生から萩園小学校時代の資料は全く残っていないと回答が届いた。
なお、文嶺が直接執筆した林流相法の解説書は無く、決定版とされる『林流相法画相気色全伝』(鴨書店刊)の記述も、その昔に流布していた秘伝書の類を集めたものであるから、全てを文嶺の観相法と信じることは出来ないのではないかと、私は常々考えている(新井白蛾の秘伝とされているものの盡くが怪しいように)。
『林流相法』は、中国や台湾でも訳出されている。
もっとも、内容がインチキという訳ではなく、文嶺に習った人や孫弟子あたりが、独自の経験から発見したものがどの程度かは不明ながら、含まれていると思うのである。
本日、12月28日は文嶺の命日である。
相法家諸氏は、心の中で是非文嶺先生の供養をして頂けたらと思う。
『林流相法画相気色全伝』(鴨書店刊)より
スポンサーサイト