林文嶺顕彰碑
- 2013/12/29
- 18:19
林文嶺の菩提寺である玉崎山東円寺
渡辺観岳先生の講演録によって、林文嶺が千葉は三川の東円寺に葬られたことを知った私は、早速東円寺にコンタクトを取ることにした。
電話で応対されたのは、住職を務める平幡照正師で、近年は個人情報保護の観点から埋葬者の問い合わせにも応じないように本山から指示が出ているとかで、初めはかなり渋っておられたが、林文嶺がどれくらい重要な人物であるか、現在も書物が出版されている現状なども併せてお伝えしたところ、段々興味を持ってこられたようで(なにぶん田舎のことで、有名人の墓など一つもないと思っておられたようだから。)、調査を行ってくださることになった。
この地方には林姓が非常に多く(私も昨年現地に赴いて、林姓の表札の多さに驚かされた)、平幡住職は、御檀家の林一族の中でも、特に年配の方に聞きとりを行ってくださったところ、その方が林文嶺の遠縁に当たることが判り、すぐに事の仔細が判明した。
まず、文嶺には息子が一人あったらしいが、息子の代で文嶺直系の血脈は途絶えてしまったらしい。
もう一点判明したのは、文嶺の没後、九州から弟子が三川を訪れ、文嶺の蔵書など遺品の一切を貰い受ける代わりに、同寺に師である文嶺の顕彰碑を建立したということである。
文嶺の墓碑であるが、此の地方では比較的最近まで墓石を建てる習慣がなく、木製の墓標(角塔婆)を建てて墓碑に代える習慣だったようで、初めから墓碑はなかったらしい。
角塔婆は風雨で朽ち果てた後は再建せず、そのままにするものだそうで、文嶺のものも勿論現存はしていない訳である。
林文嶺顕彰碑
平幡住職も石碑が山門の傍にあることは認識していたものの、どのような来歴のものか分からなかったという。
碑の表には「文嶺林先生之碑」とあり、左下に「連山塾頭 永杜鷹一」と刻まれている。
裏面には、永杜鷹一の他、連山塾塾生と思われる十一名の名前が刻まれているらしい。
平幡住職が過去帳を調べられたところ、文嶺の戒名は「醫王院乾脩懿徳居士」であることが判明したが、この“醫王院”は、蘭医を学んだ頃の名残であろうか。
教育者の戒名にしては奇妙であるが、晩年まで、医学分野に強い関心を持っていたのかもしれない。
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