マエストロ青木 with 蒼流庵 in Kyoto
- 2016/05/05
- 10:34
例年なら桜のシーズンに京都を散策するのだが、今年はマエストロのお仕事の都合で日取りが合わず、GWに京都入り。
本来なら、GWに京都入りするなど、人混みを嫌う庵主の選択するところではないが、我々が訪れるような場所は大抵凡俗どもの穢れを知らぬ。
それは嵯峨嵐山の如き屈指の観光地さえ例外ではない。
京都駅前で待ち合わせて先ず向かったのは、安倍晴明公嵯峨御墓所である。
墓とは言っても、実際には室町時代に全国に数多く造られた「晴明塚」の一つと見られ、マエストロとは一昨年の同時期に兵庫県は佐用町の晴明塚を訪れている。
九十八代・長慶天皇(1343~1394)の嵯峨東陵および角倉稲荷神社に隣接し、もとは天龍寺の旧境内で現在は晴明神社の飛び地境内となっているらしい。
9月26日は安倍晴明公の命日ということで、晴明神社が嵯峨墓所祭を催しているというが、晴明の命日たる寛弘二年九月二十六日はグレゴリオ暦に直すと1005年10月31日となるので、暦を司った土御門家の祖たる安倍晴明公の供養祭をこんなナンセンスな日取りで挙行しているのは怪しからぬ話だ。
昭和47年に大規模な整備が行われたらしく、石碑類は皆その時に建立されたものらしい。
当日はガチな崇敬者と思われる二人の女性(一人はパツキンの可愛らしいネェちゃん)が境内に居られ、とても撮影を行えるような雰囲気ではなかった為、早めにランチを済ませて戻り、じっくりゆっくり参拝を行った。
途中、マエストロが自販機にて買われたオロナミンCの蓋で指を負傷するという珍事が発生。
続いて市バスで鷹峯に向かうが、途中、乗り換えでのバス待ちの際、ちょうど、バス停が大極殿跡の入り口だったので、待ち時間を利用して散策。
大極殿とは大内裏朝堂院の正殿で、即位等国家的儀礼や諸政が行われる重要な場所であった。
貞観十八年(876)に創建後初めて焼失し、其の後も再三の被災で修復再建が繰り返されたが、安元三年(1177)の大火で焼失したのを最後に再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移った。
続く目的地は、鷹峯の讃州禅寺であるが、偶然、妙見さんの前を通りかかる。
マエストロは「妙見」の二字にいつも異常な反応を示すのだが、この岩戸妙見宮は偶々以前から気になっていた場所らしい。
中は撮影禁止にて写真はないが、中々清閑な場所で、さすが鷹峯には俗物どもの姿もほとんど見られない。
余談ながら、鷹峯は本阿弥光悦(1558~1637)が徳川家康より拝領した土地で、近くにある野間玄琢の廟所を以前ご紹介している。
鷹峯を出た後は、マエストロにお付き合いして、仏教書店とお経屋さんへ向かい、市役所前で別れて帰途に就いた。
翌日足が妙に痛かったが、マエストロの万歩計はニ万歩を記録していたらしい。
そんなに歩いた気はしなかったのだが。
本来なら、GWに京都入りするなど、人混みを嫌う庵主の選択するところではないが、我々が訪れるような場所は大抵凡俗どもの穢れを知らぬ。
それは嵯峨嵐山の如き屈指の観光地さえ例外ではない。
安倍晴明公嵯峨御墓所(右京区嵯峨天竜寺角倉町)
京都駅前で待ち合わせて先ず向かったのは、安倍晴明公嵯峨御墓所である。
墓とは言っても、実際には室町時代に全国に数多く造られた「晴明塚」の一つと見られ、マエストロとは一昨年の同時期に兵庫県は佐用町の晴明塚を訪れている。
九十八代・長慶天皇(1343~1394)の嵯峨東陵および角倉稲荷神社に隣接し、もとは天龍寺の旧境内で現在は晴明神社の飛び地境内となっているらしい。
9月26日は安倍晴明公の命日ということで、晴明神社が嵯峨墓所祭を催しているというが、晴明の命日たる寛弘二年九月二十六日はグレゴリオ暦に直すと1005年10月31日となるので、暦を司った土御門家の祖たる安倍晴明公の供養祭をこんなナンセンスな日取りで挙行しているのは怪しからぬ話だ。
昭和47年に大規模な整備が行われたらしく、石碑類は皆その時に建立されたものらしい。
当日はガチな崇敬者と思われる二人の女性(一人はパツキンの可愛らしいネェちゃん)が境内に居られ、とても撮影を行えるような雰囲気ではなかった為、早めにランチを済ませて戻り、じっくりゆっくり参拝を行った。
途中、マエストロが自販機にて買われたオロナミンCの蓋で指を負傷するという珍事が発生。
境内の石碑
続いて市バスで鷹峯に向かうが、途中、乗り換えでのバス待ちの際、ちょうど、バス停が大極殿跡の入り口だったので、待ち時間を利用して散策。
大極殿遺址(上京区千本通丸太町上ル西側)
大極殿とは大内裏朝堂院の正殿で、即位等国家的儀礼や諸政が行われる重要な場所であった。
貞観十八年(876)に創建後初めて焼失し、其の後も再三の被災で修復再建が繰り返されたが、安元三年(1177)の大火で焼失したのを最後に再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移った。
圓成寺(北区鷹峯北鷹峯町)
続く目的地は、鷹峯の讃州禅寺であるが、偶然、妙見さんの前を通りかかる。
マエストロは「妙見」の二字にいつも異常な反応を示すのだが、この岩戸妙見宮は偶々以前から気になっていた場所らしい。
中は撮影禁止にて写真はないが、中々清閑な場所で、さすが鷹峯には俗物どもの姿もほとんど見られない。
余談ながら、鷹峯は本阿弥光悦(1558~1637)が徳川家康より拝領した土地で、近くにある野間玄琢の廟所を以前ご紹介している。
鷹峯を出た後は、マエストロにお付き合いして、仏教書店とお経屋さんへ向かい、市役所前で別れて帰途に就いた。
翌日足が妙に痛かったが、マエストロの万歩計はニ万歩を記録していたらしい。
そんなに歩いた気はしなかったのだが。
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