永杜鷹堂の虚像と実像
- 2013/12/30
- 10:44
『姓名の眞理』永杜鷹堂著・1955年刊
林文嶺(1831~1907)の顕彰碑を平幡住職の協力で発見した際は、恥ずかしながら建立者である永杜鷹一について、何の知識も持ち合わせていなかった。
碑刻されている甲戌は、素直に考えれば1934年の筈だが、文嶺の死後、顕彰のために弟子が訪れ云々ということからすると、師の死後27年も経過しているというのは、少々不自然の感を免れないので、或いは建立月の干支かとも最初の頃は考えていた。
永杜鷹一について、ネットで調べてみると、どの記事も林文嶺の高弟であり、熊崎健翁の師であると書かれている。
ところが、ネット情報など丸で当てに出来ないことをすぐに思い知らされることになる。
2013年の初頭に、古書で永杜鷹一(鷹堂)の著『姓名の眞理』を入手したのだが、当初、私は鷹堂を林文嶺の直門と考え、熊崎健翁よりも年長の人物と考えていたが、『姓名の眞理』の端々の記述から推測するに、1800年代末の生まれであることは確実であり、文嶺の没年には鷹堂は幼少で10歳にも満たないことから、系図上の林文嶺→永杜鷹一の間には、別に文嶺の直門であるX氏が介在している可能性が高い。
しかし、永杜本にはこのX氏に関する記述が全く無いことから、或は円満な別れ方をしていないのか、下手をすると“自称・文嶺の後継者”である可能性も考えられなくはない。
どちらにせよ、永杜鷹一が林文嶺の高弟であるなどというのは、真っ赤な嘘である。
顕彰碑建立年についても、鷹堂の生年から考えて、碑文の甲戌を素直に判読した1934年とするのが正しいのは明白だろう。
また、「九州から弟子が三川を訪れ顕彰碑を建立云々」という文嶺縁者の証言は、記憶違いか、或は誤って伝わったかしたものに思われる。
鷹堂は、岡山県の出身で、交流した郷土の人数名の名を挙げ、漢詩人・三好敬堂(1870~1956)の弟子とある。
五聖閣において、熊崎健翁の学術顧問(この表現も鷹堂自身のものであり、実際には五聖閣講師とすべきだろう)を務めていたのは、1931年から1933年までの3年間であり、その後も暫くは東京在住だったようであるから(当時の連山塾の住所は東京市目黒区向原町二五〇番地とある)、五聖閣を飛び出した後、慌てて九州に移り、すぐに東京に舞い戻ったということでもない限り、鷹堂と九州を結び付けることは出来ないのではなかろうか。
『姓名の眞理』は、林永流(林流に永杜の発明せし處を合して、之を林永流と称す、とある)の哲学書ともいうべき内容であるが、端々に袂を分かった熊崎健翁に対する批判が出てくる。
熊崎式の学問的未熟を指摘し、健翁が宗教団体を創設したことも決別の一因であることを匂わせている(加藤大岳先生は、その一年後に五聖閣を去っている)。
しかし、直接の理由は、加藤先生が『易学研究』に寄稿された「熊崎健翁先生を悼む」と題する追悼文に出てくる。
「・・・私は職員として先生の許に在りながら、姓名学の方は全く管掌外であった。
その姓名学には門外不出の奥儀秘伝と称されるものがあるのだが、職員達は其のような制約に殆んど無関心で、しばしば其の禁制を犯すために、職員みんなに入門誓約書の提出を求められたことがあつた。
その誓約書には、奥儀秘伝は絶対に他に口外しないという誓いが立てられているわけである。
それを出してしまつた後になつてこれを憤慨したのは同僚の永杜鷹一君である。
この永杜という人は、偏屈ではあるが気骨を重んじ、格式などをやかましく言う人で、われわれは熊崎氏に客員として迎えられては居るが、門下生などではない。入門誓約書を要求するなどとは言語道断である。その誓約書は盗み出して破棄しようではないかとみんなに提案した。
然し、そんな書類のことなどに誰も拘泥していなかつたし、また私はそういう不満があれば、誓約書を出す前に述べるべきではないかという意見であった。
誰も合槌を打たないものだから永杜君は其れを自分一人で決行すると言い、ついでに皆の分も盗み出して破いて置くということであつた・・・」
以上が、どうやら真相のようである。
先に書いたように、ネット上では健翁を連山塾の塾生で鷹堂の弟子であると解説している人が居るが、とんでもない誤りであり(そもそも連山塾というのは、五聖閣を飛び出した後に立ち上げたものではなかろうか?)、鷹堂が健翁の弟子でなかったにせよ、親分格はやはり健翁とすべきだろう。
なお、熊崎健翁自身によると、林流二世が鈴木亨斎で、三世が熊崎健翁であるという。
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