吉田松陰先生旧蹟
- 2016/06/08
- 22:59
史蹟松下村塾
今回の四国~山陰山陽の旅において、当初予定にはなかったが偶然に立ち寄ることになった場所が道後温泉の他にも幾つかある。
その最大の収穫は吉田松陰先生の旧蹟で、もともと萩へは永富独嘯庵の師である山県周南の墓碑を見に行ったのだが、お次に独嘯庵の顕彰碑を見に下関へ向かう為、ナビをセットしようとしたところ、我が目に飛び込みたるは「松下村塾」の四字。
下関へは一時間ほどかかるのだが、すでに時刻は16:30で、下手をすると日没までに独嘯庵顕彰碑に辿りつけないかもしれず、写真撮影が出来ないと手痛いロスになってしまうと思案するも、偶々目の前に停車していた車のナンバープレートを見ると「7272」。
この数字を卦に直すと沢山咸の不変となるが、雑卦伝には「咸は速やかなり」とあるので、急いで回れば吉と断じ、松下村塾へ向かう。
これが意外な収穫となったのである。
まず、驚かされたのは松下村塾近辺の異様なグイグイ感で、そのエネルギーの強烈さはそこらのパワースポット(とされている場所)の比ではないと感じた。
松陰神社にアゲアゲの御魂を祀ったが為にこんなエネルギーがガンガン出ているのか、それとも元からこういう場所なのかは判然とせぬが、もし後者だとすると、松陰門があれだけ明治維新の重要人物を輩出したのは松陰先生の個人的感化力のせいばかりではないような気がする。
いつの頃からか「パワースポット」なる言葉が人口に膾炙して、これを売りにしたツアーなども各社が企画するようになり、本来聖地であるはずの場所に凡俗共が大挙して押し寄せるようになって久しい。
パワーなど微塵も感じられない人たちがそんなところに行ったところで大した意味があるとも思われず、むしろ聖地が汚染されるだけではないかという気がするが、これだけのパワースポットたる松陰先生旧蹟が単なる観光地としてばかり紹介されている辺り、パワーを感じることの出来る人間が如何に少ないかの表れであろう。
ここは當に「明治維新胎動之地」と呼ぶに相応しかろう。
もし今ここでお勉強することを許されるなら、間違いなく自分の学問が進歩すると思うが、アゲアゲになり過ぎてパーになってしまう危険性もあるような気がする。
パワースポットとして、恋愛成就だの幸せを呼ぶだのとしっちゃかめっちゃかな宣伝をしているサイトもあるようだが、肝心の御大は30歳で処刑されているし、一番の出世頭たる伊藤博文もキチ○イ挑戦人に射殺されるという最期を遂げていて、アゲアゲにこそなれ今一つ幸せを呼んでくれそうには思えない。
恋愛成就だの復縁だのは意味不明。
伊藤博文は「千人斬り」とも言われたらしいが、女性が参拝しても御利益はあるまい。
松陰神社は世田谷にもあるそうだ。
こんなにグイグイしているのか、少し気になるところもあるので、今度上京の折に立ち寄ってみたいと思う。
なにやら昭和の気配が漂う吉田松陰歴史館は、時間が押していたこともあって、入館せず。
神社から徒歩5分ほどのところに「松下村塾発祥之所」の石碑があり、ここは松陰の叔父で、松下村塾の創始者・玉木文之進(1810~1876)の旧宅である。
この玉木文之進というのも相当クレイジーな男だったようで、些細なことですぐボコボコにする凄まじいスパルタ教育だったらしく、松陰も当時を述懐して「よくあの時死ななかったものだ」と言ったというが、この叔父もまた最期は自害しており、つくづく畳の上で死ぬことの出来ぬ連中らしい。
5分ほど坂を上がると、松陰の生誕地である杉家の旧宅地に着く。
ここは、特に再建されることもなく、広場のようになっている。
広場の隅には松陰の産湯の井戸が残っている。
生誕地から更に坂を上ると、一族の墓所があり、二十一回忌に門人らによって建てられた墓碑がある。
水溜や花立、燈籠には、伊藤博文や久坂玄瑞、高杉晋作ら寄進者17名の名が刻まれている。
スポンサーサイト