平幡住職を通じて文嶺縁者の古老から齎された情報によって、顕彰碑の大凡は判明した訳だが、ここで気になるのは、建立者である永杜鷹一のその後である。
鷹堂が顕彰碑建立時に持ち帰ったという林文嶺の遺品中には、極めて重要な情報が含まれているはずであるし、『姓名の眞理』によると、鷹堂の手になる易・相・四柱・姓名の秘伝書四巻三十二編があったといい、連山塾の入門者にのみ伝授されたとあるのだが、この林永流の秘伝書というのも気になる。
加藤大岳先生より10歳程度年長のようであるから、長命であれば平成の御代まで存命であったとしても不思議ではないが、鷹堂の足跡として辿れるものは、手元にある『姓名の眞理』1955年刊が最後のもので、これとて1938年の『運命の哲理』を改題しただけの異題同書であるから、戦後の活動については全く何の手がかりも得られないのである。
顕彰碑裏面に記されている連山塾の門下生達も、どのような人々か全く不明である。
戦後も活動していたとすれば、『易学研究』辺りに何らかの記載があっても良さそうであるが、それらしい名前に覚えがなく、早くに他界されたか、或は業界から引退して、どこかで隠遁生活を送ったのか(ここでその隠遁の地が九州ではないかという説が浮上した。現在は廃棄されたが『運命の哲理』がかつて長崎県立図書館に収蔵されていた形跡があり、手元の『姓名の眞理』も長崎の古書店から買い求めたものである。文嶺の遺族と鷹堂が其の後も交流していたとすれば、永杜鷹一=九州の人として伝えられたとしても不思議ではない)。
“永杜”の姓は非常に珍しいものであるから、同姓の人物は血縁にある可能性が高いと考えて、岡山在住の友人に調査してもらったが、岡山の電話帳には永杜の姓は一件も存在しないということであった。
念のため、こちらでも全国の電話帳を調べてみたが、永杜姓は一件も確認できなかった。
そこで、見落としでもありはすまいかと、今一度岡山の電話帳を調べてみると、“長森”姓が非常に多いことに気付いた。
ここで頭を過ったのは、“永杜”は本名ではなく、“長森”を改称したものではないかということだった。
鷹堂は姓名学の大家であったから、それに従って本姓を操作していたとしても、不思議ではない。
『姓名の眞理』には、鷹堂には子供が居たことが書かれているので、存命であれば80~90歳くらいであろうか。
そこで、電話帳にある長森氏の番号に片っ端から電話をかけてみたが、全くの坊主であった。
もう一つの手掛かりは、鷹堂は四人兄弟で、内二人は夭逝し、兄と鷹堂の二人が残ったと『姓名の眞理』にあり、兄は名を中島六窓といい、池坊新花道宗家だという。
早速、京都にある池坊のいけばな資料館に問い合せたところ、池坊では宗家は一人で、あとは家元と呼ぶのが通例であるから、宗家を名乗っているとすれば、池坊出身の人が立てた新しい流派と思われるので、池坊の管轄にはない為、詳細不明とのことであった。
ここでも残念ながら手掛かりが途切れてしまった訳だ。
やはり、ここで調査を妨げるものは先の大戦らしい。
鷹堂の兄も子供も戦争に巻き込まれていないとはいえないし、鷹堂自身も『姓名の眞理』出版の1955年に生きていた保障はどこにもないのである。
17年後の復刊に当たって、その間の活動に一切触れられていないのは聊か不自然ではなかろうか。
以上が、半年に渡った永杜鷹一調査の経過であるが、上記の経過報告を日本易学協会の機関誌『鼎』No61に発表後まもなく、『易学研究』に、それも加藤大岳先生が永杜鷹一について言及している箇所を発見したのである。
灯台もと暗しとは、このことだろう。
明日、問題の箇所を読者諸賢の御目にかける。
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