『昔の先生今の先生』長澤規矩也著
- 2016/07/24
- 21:11
『昔の先生今の先生』長澤規矩也著(愛育出版,/1970年初版)
長澤規矩也の数ある著作の中で最も“らしさ”の出た本は、何と言っても『昔の先生今の先生』であろう。
そして、この“らしさ”の遺憾なく発揮された書物は、べらぼうに面白いのである。
著者の師に当たる先生方や同僚の学者達の逸話が中心であるが、裏話の類に属する、つまり書かれる側からは甚だ迷惑であろう記述が随所に出てくる。
序文は以下のような書き出しで始まる。
学生時代から、明治・大正時代の教授の逸話を耳にしたが、一高の教師となって、見聞をさらに重ねた。戦後、逸話を残すような教授はごくまれになったが、考え方では、そういう先生は大学でも勤まらなくなったのである。
この“そういう先生”が主題なのだから、本書が面白くない筈がなかろう。
著者の直接関わった人ではないが、見聞した逸話として庵主が私淑する根本通明も登場する。
明治三十年代の東京帝大の漢学科の教授には、根本通明・島田重礼という両大家がいられ、大言壮語も辞せられなかったと伝える。根本先生はちょんまげに鉄扇、ときには短刀という異様な風采であったそうだ。「わしの家には、昔、王仁が朝鮮から持って来た論語がある。」と常に自慢されたよしであるが、今日秋田県立図書館に存する先生の旧蔵書の中には、それどころか、古写本の論語は、一冊も見つからない。常に「夷狄」「夷狄が」と仰せられたのに、紋付羽織のいでたちのお足もとは洋ぐつ。学生が先生をやっつけようと、「先生はいつも夷狄夷狄と仰せられるのに、夷狄にならってくつを愛用されるのはおかしいではありませんか。」とやり込めたつもりで言った。すると、先生ひるまず、「だから、わしはいつも足でくつをふんづけている。」(40頁)
狩野直喜については、
狩野先生も人の好ききらいがかなりはげしく、面と向かってはそれほどではないが、愛憎の念は内心にはひどかったようだ。つまらぬ著作を他人から贈られると、せっかくの厚情、読むに足りなくても、暖かさだけ受けようと、ふろの下でもさせられたという。東京には、きらいな人の序文はすべて破り棄てたため、蔵書に不完全なものが多いという定評のあった篆刻家があった。好一対。(71頁)
てな具合。
平成12年の再刊に当たって生前未発表の遺稿「東京帝大の門閥」が附されていて、裏話という観点では本書中の白眉かと思われるが、この本の見どころはそういった裏話だけでなく、学問研究を深める上でも極めて示唆に富んで参考になる記述が散見されることを書き添えて置く。
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