永杜鷹一のはなし②
- 2013/12/31
- 10:55
熊崎健翁先生
まるで酔生夢死を愧じぬかのような私の生涯を回顧するとき、日中にしてすら嚮晦宴息を念う懈怠のうちに、而かも門を出でて自ら求めたのに等しい有功の交りを多くの先輩・同輩・後進に得ることの出来た天寵は、何にも代え難い私の仕合わせであった。
前回の此の雑感に於て端なくも筆の運びから披露した永杜鷹一君なども其の一人で、必ずしも良友というのではなく、また些して深い交りがあったというのでもないが、忘れ難い一個の人格であった。
前回の拙稿を読まれた会員の瀬戸トキ子さんからお手紙を戴き、その中には彼の著書『運命の哲理』に挿入されていた写真の記憶に依って描かれたという肖像に「大変ゴツゴツした貧相な首の長い紋付を着た写真であったと記憶します」と書添えてあったが、三十年近い古い写真の印象から未見の人物像を描き出して居られる才能には驚嘆の外はないが、然し一面には永杜君自身に、人にそのような強い印象を与える何かがあったのではあるまいか。
彼の性癖には確かにゴツゴツした角があり、それに触ると厄介なことが持上りがちなので、私はなるべく滑らかに其の角を撫でるように心掛けていたが、それでも二度ほど角突き合わせたことがある。
私が「燎原の勢いを以て」と書いたのに対し、彼は其の形容詞を使うのならば燎原の“火”の勢いとしなければならないという意見なのであった。
それに対して私は燎という文字は焚くという意味なのだから、原を焼く勢いを以てと言っても可笑しくはないと言って反論し、口角泡を飛ばして罵り合ったのである。
実にバカげた話である。
本当は永杜君の説の方が妥当なのである。
それに燎原の火というのは、悪いものの拡がる形容として使われるのが普通なのに、私は正しい易の普及してゆくことを其れで表現したのであるから、本来ならオジギして引退るべきに、激突したのは私の虫の居所が悪かった所為である。
永杜君が私に直接に其の注意をしたのならば、或は素直に其れに服したに相違ないが、彼は其れを私たちの師たる人に告げ口し、その人から可否を問われたので、私は穏やかならぬ思いで辞典を調べ、その形容詞が左伝の中に「如火之燎于原」とあり、火の原を燎くが如しと使っているのをも確かめ、燎原と言えばことさらに火と言わずとも火であることに決まっているという屁理屈を並べ立てたのであった。
詰らないことで渡り合ったものであるが、回想すれば当時の衒気もまた懐しい。
また或る時、離卦九三の「不鼓缶而歌」を「缶ヲ鼓チテ歌ワズ」と訓むか「缶ヲ鼓タズシテ歌ウ」と読むかで激論を闘わしたことがあった。
その夜、彼は家に帰らず、私たちの教室になっていた部屋に泊り込み、一晩中一睡もせずに「大岳の奴め」と叫びながら号泣していたと、後で其の教室の管理をしていた婦人から聞かされ、彼の剛情に驚き呆れさせられた。
私が永杜君と最後に遇つたのは、昭和九年の夏である。
その日彼は熊崎健翁先生と、これは学問上のことではなく事業経営の精神に就て諍いをした憤激の余り、腹を切つて先生を諫めたいから部屋を貸して貰いたいと私の家に駈け込んで来たのである。
自分のところで切腹などされては迷惑千万なので、私は「瑕の中に珠をこそ」と彼を慰撫して切腹を思い止まることを承服させるのに成功したが、彼は「瑕の中の珠か。君のオハコの言葉だね」と言つた。
それ故「瑕の中の珠」という譬喩が、彼のオハコであつたのか私のオハコであつたのか、今ではよくわからない。
彼の切腹が本気のものか、狂言であつたのかがわからないのと同様に。
永杜鷹一君は戦争の激しくなつた頃か、終戦間もない頃に、漂泊の旅の中に果てたというが、圭角の多い此の激情家は、私の中にもある同じ性癖を矯めなおす鏡となつた恩人と称すべきかも知れず、今となれば懐しい思いがする。
『易学研究』昭和41年7月号・「門を出でて交われば功あり」より
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