森田節斎の墓
- 2016/08/27
- 21:18
森田節斎墓(和歌山県紀の川市荒見)
岡村閑翁は森田節斎の門人である。
従って、安岡正篤は森田節斎の孫弟子に当たる訳だ。
森田節斎(1811~1868)は、町医・森田文庵(川越衡山の門人)の三男として大和五条で生まれ、名は益、字は謙蔵といい、節斎・節翁・節庵・愚庵と号した。
文政八年(1825)に上京して猪飼敬所に学び、同十一年、頼山陽に従学。
翌年、江戸に出て昌平黌に入り、安井息軒らと交遊。
天保末年、京都に開塾して尊攘論を唱え、吉田松陰らを輩出、頼三樹三郎・梅田雲浜らと親しく交わった。
播磨姫路藩の招聘を辞し、文久元年(1861)倉敷に移った。
文久三年(1863)年、門人の乾十郎・原田亀太郎が天誅組に加わった為、幕府の追求を受け、荒見村の北長左衛門宅に身を寄せることになった。
慶応四年に病没。
墓所は荒見の北家墓地内にあり、昭和三十三年には県の指定文化財となった。
節斎森田先生之碑(九頭神社/和歌山県紀の川市荒見)
近くの九頭神社には、昭和十二年、節斎会によって建てられた顕彰碑がある。
案内板の左下に墓所への地図が付されているが、この地図かなりアバウトで到底これを頼りに探しても辿り着けそうにない。
現に庵主も小一時間同じような場所をグルグル回ることになってしまった。
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