谷三山の墓
- 2016/08/29
- 18:41
谷三山墓(八木醍醐共同墓地/奈良県橿原市南八木町)
森田節斎と交流した儒者に谷三山(1802~1867)という聾儒が居る。
享和二年に大和高市郡八木の米殻商・谷重之の次男として生まれ、名は操、幼名は市三、字は子正・存正(存誠)、通称は初め新助、のち昌平といい、三山・淡庵・淡斎・繹斎・相在室と号した。
十一歳で耳目の病を得、十四歳の時に完全に聴力を失ってしまうが、独学で正史・経伝に通じ、家塾興譲館を開いて諸生に教授した。
文政十二年(1829)、兄と共に京都の猪飼敬所を訪ねて門下に入る。
森田節斎と親交があり、頼山陽や吉田松陰も三山を訪ねたという。
嘉永二年(1849)、大和高取藩主・植村家貴(1807~1853)に招かれて藩儒となり、家貴没後は家保(1837~1896)に仕え、教学の振興、尊攘の急務を進言した。
四十八歳の時、眼病が再発して失明し、ヘレンケラー状態となったが、非凡な記憶力の持ち主であった為、手のひらに文字を書くことで、門人に講義や質疑応答を行って指導したという。
慶応三年に六十六歳で没した。
墓所のある八木醍醐共同墓地は、晩成小学校の西側、飛鳥川沿いにある。
やや判りにくい場所で、探墓に失敗した人も多いようなので、参考にして頂きたい。
三山谷先生碑(奈良県橿原市今井町二丁目)
今井まちなみ交流センター華甍の前には、大正五年に建てられた三山の顕彰碑がある。
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