松崎慊堂の墓
- 2016/08/30
- 19:59
松崎慊堂墓(長泉院/目黒区中目黒4-12-19)
私は儒者といっても所謂易儒以外にはそれほど興味を持って調べてこなかったのだが、以前まとめて安岡正篤先生の本を読んだ際、何度も触れられていて印象に残ったのが、松崎慊堂や細井平洲といった学者で、昨夏、上京の折に掃苔して来た。
松崎慊堂(1771~1844)は、明和八年に肥後国益城郡木倉村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれ、名は圭次・密・復、字を退蔵・希孫・明復といい、木倉・益城・慊堂・当帰山人と号した。
十一歳で益城郡下無田の宗専寺に入り、薙髪。
十五歳の時、江戸に出て浅草称念寺に寄宿するが、翌年還俗。
寛政二年(1790)林家に入門、昌平黌に学ぶ。
同八年、塾生の失行に連座して一旦離門するが、同十年、許されて復帰。
享和二年(1802)、遠江掛川藩校徳造書院創設に際して教授となる。
文化八年(1811)、朝鮮通信使の応接の際、林述斎に同道して対馬に赴く。
肥後熊本藩に招かれるが固辞し、文化十一年、致仕。
江戸目黒羽沢の石経山房に隠棲し、門人の指導と諸侯への講義にあたる。
天保十三年、将軍徳川家慶に謁見を許され、掛川藩から用人格、二十人扶持を与えられた。
門人に塩谷宕陰(1809~1867)・安井息軒(1799~1876)らがあり、蛮社の獄に際しては、渡辺崋山(1793~1841)の赦免運動に奔走した。
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