細井平洲の墓
- 2016/08/31
- 20:41
細井平洲墓(天嶽院/台東区西浅草3-14-1)
細井平洲(1728~1801)は、享保十三年に尾張知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家細井甚十郎正長の二男として生まれ、名は徳民、幼名は外衛、字は世馨、通称を甚三郎といい、平洲・如来山人・翕坡叟・嚶鳴館と号した。
初め尾張加家村観音寺の住職義寛に学び、十六歳の時に京都へ遊学して、有栖川宮職仁親王(1713~1769)に和歌を学んだ。
延享元年(1744)、名古屋の中西淡淵(1709~1752)に入門、翌年長崎に遊学し、同四年、帰郷。
宝暦元年(1751)江戸に出、先に移住していた淡淵の叢桂社で教授したのち、嚶鳴館を開いて諸生を教授した。
同六年、伊予西条藩主松平頼淳(後の紀伊和歌山藩主徳川治貞)に、明和元年(1764)羽前米沢藩世子上杉鷹山(1751~1822)に学を講じ、秋山玉山(1702~1764)・木村蓬莱(1716~1766)・渋井太室らと親しく交わった。
同八年、藩主上杉鷹山の招きで米沢へ下り、翌年帰府、安永五年(1776)藩校興譲館が成って再び赴き、学規学則制定に尽力した。
同九年、尾張藩儒となり、天明三年(1783)、藩校明倫堂督学となって学政に関与した。
寛政八年(1796)、米沢藩主上杉治広(1764~1822)の招きで米沢に滞在、同十一年、隠居。
詩に優れ、和歌・画をも能くした。
享和元年、江戸市ヶ谷で没し、浅草の天嶽院に葬られた。
弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎(1747~1793)らがいる。
平洲の教育論を安岡先生はよく引用しておられるが、平洲は教育を菊づくりと大根づくりに例えており、菊づくりは理想とする一本をつくる為に不出来な花は残さないようにするもので、教育は百姓が大根をつくる様に、出来の良いものも悪いものも、一本一本大切にし、食べられるように育てるのと同じであらねばならぬ、としている。
庵主などは、むしろ菊づくりの教育の方に惹かれるのだが、教育にはやはり両方の場所が必要で、一般教育としては大根方式が大切であることはいうまでもないが、菊方式もまた没却されてはならぬものだと感じるところがある。
出身地である東海市では、平洲をモデルにした其の名も「へいしゅうくん」がキャラクターとなっている。
スポンサーサイト