山田方谷の墓
- 2016/09/01
- 21:34
山田方谷墓(方谷園/岡山県高梁市中井町西方)
最近、山田方谷のブームらしい。
が、庵主は流行に便乗するような人間ではないので、あくまでも易儒としてご紹介したいと思っている。
山田方谷(1805~1877)は、文化二年に備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に生まれ、名は球、幼名は阿璘、字は琳卿、通称を安五郎といい、方谷と号した。
幼時、備中新見藩儒・丸川松隠(1758~1831)に学ぶ。
文政八年(1825)、松山藩に士官。
同十年、上洛して寺島白鹿(1776~1850)に儒を学び、帰藩して藩校有終館会頭となる。
天保三年(1832)、江戸に出て佐藤一斎に師事し、佐久間象山らと交わる。
同八年、有終館学頭となり、傍ら私塾牛麓社を開いた。
嘉永二年(1849)、藩の会計の元締兼吟味役を勤め、財政の改革に尽力し、文久元年(1861)致仕。
同二年、藩主板倉勝静(1823~1889)が老中に進むと、東行して顧問となり、難局に対処した。
維新後は岡山の閑谷学校の再興に当たった。
易書に
『周易上経聴記』
がある。
二松學舍(二松學舍大学の前身)を創立した三島中洲(1831~1919)は、方谷の高弟で、14歳のとき牛麓舎に入り、19歳で塾長となっている。
墓所のある方谷園は、方谷顕彰のため、教育会の拠出金により造られた小公園で、明治四十三年に完成した。
園の入り口にある上掲の碑は犬養毅(1855~1932)が揮毫したもの。
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