『大阪訪碑録』と木村敬二郎
- 2016/12/18
- 14:17
『大阪訪碑録』木村敬二郎著(『浪速叢書』10巻所収/1929年刊)
京都に寺田貞次の如き偉大な掃苔家が居たように、大阪にも“浪速版寺田貞次”とでもいうべき人物が居た。
その名を木村敬二郎といい、その仕事は1929年に『浪速叢書』の一冊として刊行された『大阪訪碑録』で知ることが出来る。
この本は、寺田貞次の『京都名家墳墓録』と比べると、完成度の点では抗し難い。
収載されている件数はずっと少ないし、墓碑の形状や位置、子孫の所在など、寺田本に見られるような精緻な記述もない。
収載されている人物も、京都という古い文化都市の記録と言い換えて過言ではない寺田本に比べ、スケールの大きい人物は少ないようだ(もっともこれは著者の非ではなく、扱っている地域の相違に拠る訳だが)。
しかし、この本も、今では現存していない墓碑の情報を多く記載し、碑文についても全文を載せていて、貴重な情報を提供してくれる名著であるには違いなく、大阪をフィールドとする掃苔家には無くてはならない本と言えよう。
そして、寺田本にない美点が、墓碑の全体でないのが残念ではあるものの、題字の一部が影印の形で収載されていて、現存せぬ墓碑の往時の面影を幾らか伝えている点である。
木村敬二郎の生涯は謎の部分が多い。
関西大学のサイトにも記述があるものの、管見の限りでは『大阪人物辞典』の記述が最もよく纏まっていると思うので、少々長いが、該当箇所を引用させて頂く。
~~~~~~~~~~~~~~以下引用~~~~~~~~~~~~~~
木村敬二郎 地方史研究家、『大阪訪碑録』の著者。
同書は昭和四年(1929)五月の刊行、凡例項に「六十九翁」(数え年)と記しているから、逆算して文久元年(1861)生まれとなる。
「解題」とある巻頭の解説文から要約する。
「翁は河内国三宅村の名門に生まれ、藤沢南岳に学び、篤処の雅号を持つ。
いつ頃から掃苔に興味を有されたか動機については明瞭ではないが、蔵鷺庵の永富独嘯庵か、超願寺の北山七僧墓から始められた。
浪華の名墓を書いた明治以後のものは、宮武外骨の『浪華名家墓所集』と、鎌田春雄の『近畿墓跡考』、太田芦陰の『浪華碑文録』がある。
本会は翁の原稿と三書を対照し翁の再調査を煩わしたが、多くの墓碑は存していなかった。
翁は炎熱の夏も寒風凜烈の冬も、家事の暇に孜々として大阪市中の墓地を歩き拓本をとられ、二十数年の星霜を経て総て実地踏査して、美濃紙千五百余丁の原稿をまとめられた。
その間碑文に疑義を抱き再度該当墓地を訪れてみると、既に墓は消失していた。
桑田碧海の喩えは今も存在する。
収録した人物に、名流に数えなくてもと首をかしげるむきもあろう。
だが人物の功業は死後数十年数百年経って顕れることも多い。
因って何百年の後に、本書の数行の碑文が貴重な資料になるか計り知れない。
それで翁の収集したものを、このまま選別せずに編むこととする。
翁は今古稀に近く耳がやや遠いが、なお矍鑠として壮者を凌ぐ。
世に出すに際し『斯る拙いものを』と幾度も謙遜されたこと、原稿は全部白文だったのを梅見有香に訓点を付し、藤沢黄坡先生に校閲していただいたことを付記する。」
文中にある「本会」とは、「我らが愛する大阪に関する編著記録から、過去の浪速文化を回顧せしめ、未来の浪速文化を生ましむべき目的で未刊原稿を収めよう」との趣旨で起こした「浪速叢書刊行会」をいう。
理事に伊藤秀夫・江崎政忠・森下博ら九名、顧問に幸田成友・新村出・藤井乙男・関一ら、相談役に南木芳太郎・佐古慶三ら、当時の大阪を代表する人たちが加わる。
敬二郎自身はこう書いている(要約)。
「郷土先賢の墳墓を弔い、碑文を読んで追慕の念に耽る。
これが三十年来心に無上の悦びを与える。
都市計画その他の理由で寺院の移転、墓地の縮小甚しく、昨日あったものが今日は無い。
今のうちに墓碑の拓本を完成しなければ、事跡の湮滅は遠くはあるまい。
自分は寡聞非才だが先賢景慕の念だけはある。
そこでこの訪碑録の編集を始めたが、二十数年の歳月が流れた。
だがまだ完成途上だ。
それでも発表するのに時期尚早だと思ったが厚意黙しがたく、忸怩の念に耐えぬ不充分な稿本を提供することにした。
幾分なりとも世に役立てば幸いだ。
この書の大成は自分の唯一の願望なので、さらに調査し続編を編みたい。」
以上で『大阪訪碑録』の大要が理解出来る。
収録人物は確かに玉石混交だが総計八六二名、これに墓の題字、もしくは墓碑文の拓本の一部、それに墓碑文の全文を活字でつけている。
碑文の無いものには、『浪華人物誌』から抜いた解説文をつけ、私見はほとんど交えていない。
他書にあり自分が訪ね得なかった人物九十名を巻末に挙げており、現在判明しているものもあるが、これまた有難い資料となる。
「人皆其の篤志に感ぜり。
実に浪華人物を検討するに、絶好の資料と称すべきものなり。」
これは同書も参考にして、昭和十一年(1936)『続大阪人物誌』を出す石田誠太郎の言葉。
敬二郎は刊行後間もなく亡くなったと思われる。
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