藤沢東畡・南岳の墓
- 2016/12/19
- 18:16
藤沢南岳墓(齢延寺/大阪市天王寺区生玉町13−31)
木村敬二郎の師・藤沢南岳(1842~1920)は、天保十三年に藤沢東畡の長男として讃岐大川郡引田で生まれ、名は元章、字は君成、通称を恒・恒太郎といい、南岳・醒狂・醒狂子・香翁・七香斎主人・九々山人と号した。
家学を受けて高松藩に仕え、大阪に在って父より塾舎泊園書院を継いだ。
尊王の志篤く、佐幕派の藩を官軍に帰順させることに尽力し、藩の保全に努めた。
その後、藩政に参画、藩校講道館の督学を勤めたが、廃藩後は大阪で泊園書院を再開、門人育成に努めた。
『東畡先生文集』(明治17年)を編し、『史記評林』『文章九格』等著作も多く、「通天閣」の命名者としても知られる。
長男は衆議院議員となった藤沢黄鵠(1874~1924)、次男は関西大学初の名誉教授となった藤沢黄坡(1876~1948)で、小説家の藤沢桓夫(1904~1989)は黄坡の長男で南岳の孫に当たる。
藤沢家の墓所は、以前、紹介した岡本為竹と同じく生玉の齢延寺に在り、或いは師を慕って木村敬二郎も此処に墓所を定めた可能性もあるかと思い、墓地内を歩いてみたが、それらしい墓碑は見つからなかった。
藤沢東畡墓
藤沢東畡(1794~1864)は、寛政六年に讃岐で生まれ、名は甫・輔、字は元発、通称を昌蔵といい、東畡・泊園と号した。
六歳の時、中山城山に入門し、徂徠学を学ぶ。
文政元年(1818)、長崎に遊学し、奉行高島四郎兵衛(砲術家・高島秋帆の父)の知遇を得て唐話を学ぶ。
帰郷し、高松福田町に塾舎守泊庵を開く。
同七年、春田横塘(1768~1828)らの招きで大阪に移り、淡路町に塾舎泊園書院を開く。
名声高く、摂津尼崎藩の賓師となり、嘉永五年(1852)高松藩より士分に列せられた。
元治元年(1864)、将軍徳川家茂に二条城で拝謁、幕府の儒員に望まれたが辞退し、大阪に帰った。
スポンサーサイト