泊園書院址碑
- 2016/12/20
- 18:19
泊園書院址碑(関西大学以文館北側)
藤沢東畡が文政八年(1825)に興した泊園書院は、のちに関西大学の源流の一つとなった漢学塾で、幕末期にはかの懐徳堂をもしのぐ大阪最大の私塾として栄えた。
明治六年には、東畡の子・南岳によって再興され、その学徳を慕って全国から学生が集まったが、その中に木村敬二郎も居たようである。
泊園書院の場所は何度も変わっていて、文政八年に東畡が始めたのは現在の淡路町五丁目で、南岳が明治六年に再興した時の場所は船場唐物町、そして明治九年には淡路町一丁目に移った。
その後、南区南綿屋町に移転し、明治40年には再び東区東平野町5丁目(のちの3丁目)に移転している。
明治四十四年には、分院が南区竹屋町九番地(現在の中央区島之内一丁目)に開かれたが、大正九年に南岳が没し、黄鵠も引退すると、この分院が黄坡の主宰する本院となった。
この本院跡に、藤澤桓夫が建碑したのが上掲の泊園書院址碑であるが、2010年10月23日、「泊園記念会創立50周年記念国際シンポジウム」の際、吹田にある関西大学以文館の北側に移設されている。
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