木村敬二郎を探して①
- 2016/12/21
- 18:22
偉大な仕事を成し遂げたアマチュアと凡庸な専門家とでは、孰れがより後世を裨益するものか、態々申し述べるに及ぶまいが、前者は後者に比して名前が残り難いのは不可思議なことだ。
先にご紹介した寺田貞次先生など、百年前の著述が種々の学界を未だに裨益し続けているアマチュアの業績の好例と言って良かろうが、京都大学教授まで務めた学者であるにも関わらず、その業績が趣味の分野である為か、顕彰する目的で文を起こす人すら殆ど現れない。
庵主が、このような歴史に埋もれた偉大なるアマチュアを掘り起こして顕彰したいと念願するのは、自身がしがないアマチュアの一人だからでもあろうが、自分以外に誰が成し得ようかという使命感からでもあるような気がする。
特に、我が故郷大阪をフィールドに掃苔を行われた木村敬二郎翁などは、庵主が最も気にかけている偉大な先人で、取り分け此の一年ほどは目当ての掃苔の殆どを遣り尽くしたこともあって、掃苔の境地も「ハカマイラーをハカマイルする」という異次元的領域にまで到達した感がある。
『大阪訪碑録』巻頭の解題では、「翁は河内國三宅村の名門に生れ」とあり、この「河内國三宅村」というのは、現在の大阪府松原市三宅で、それほど広い地域ではない。
名門という位だから、現地に行けば何か判るかもしれないと思い、年初に数回三宅を訪れて、電話帳やら住宅地図やらを調べてみたところ、二軒の木村氏を見出したが、どちらも失礼ながら名家の門構えにしては些か貧弱で、案の定、共に敬二郎とは何の関わりもなかった。
この地域の墓は、三宅東三丁目にある「三宅霊園」に集まっていることを知り、広大な墓域を丹念に探してみたが、それらしいものは見当たらず、無縁墓域に「木村家之墓」と刻まれたものが目にとまったが、側面や背面は読み取れない状況であった為、敬二郎と結び付けるに足る物証には成り得ない。
霊園近くの花屋などにも聞き取りを行ったが、名家旧家の木村氏には心当たりがないということで、木村敬二郎生誕地調査は空振りに終わってしまった。
先にご紹介した寺田貞次先生など、百年前の著述が種々の学界を未だに裨益し続けているアマチュアの業績の好例と言って良かろうが、京都大学教授まで務めた学者であるにも関わらず、その業績が趣味の分野である為か、顕彰する目的で文を起こす人すら殆ど現れない。
庵主が、このような歴史に埋もれた偉大なるアマチュアを掘り起こして顕彰したいと念願するのは、自身がしがないアマチュアの一人だからでもあろうが、自分以外に誰が成し得ようかという使命感からでもあるような気がする。
特に、我が故郷大阪をフィールドに掃苔を行われた木村敬二郎翁などは、庵主が最も気にかけている偉大な先人で、取り分け此の一年ほどは目当ての掃苔の殆どを遣り尽くしたこともあって、掃苔の境地も「ハカマイラーをハカマイルする」という異次元的領域にまで到達した感がある。
『大阪訪碑録』巻頭の解題では、「翁は河内國三宅村の名門に生れ」とあり、この「河内國三宅村」というのは、現在の大阪府松原市三宅で、それほど広い地域ではない。
名門という位だから、現地に行けば何か判るかもしれないと思い、年初に数回三宅を訪れて、電話帳やら住宅地図やらを調べてみたところ、二軒の木村氏を見出したが、どちらも失礼ながら名家の門構えにしては些か貧弱で、案の定、共に敬二郎とは何の関わりもなかった。
この地域の墓は、三宅東三丁目にある「三宅霊園」に集まっていることを知り、広大な墓域を丹念に探してみたが、それらしいものは見当たらず、無縁墓域に「木村家之墓」と刻まれたものが目にとまったが、側面や背面は読み取れない状況であった為、敬二郎と結び付けるに足る物証には成り得ない。
霊園近くの花屋などにも聞き取りを行ったが、名家旧家の木村氏には心当たりがないということで、木村敬二郎生誕地調査は空振りに終わってしまった。
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