木村敬二郎を探して②
- 2016/12/22
- 06:14
図書館の郷土資料コーナーでふと手にした『大阪現代人名辞書』(文明社/大正2年刊)に木村敬二郎の名を見出したのは今年三月のことで、大変に驚くと共に、その生涯の謎に包まれていた理由の一端を垣間見た気がした。
同書の「木村伊太郎」なる酒造業者の項には、明治二年生まれの姉が文久元年生まれの敬二郎なる人物に嫁いだとあり、この敬二郎は大阪府の平民・橋本加九十郎の二男とある。
『大阪人物辞典』では、訪碑録凡例項の「六十九翁」から逆算して生年を文久元年(1861)と推測しているが、『大阪現代人名辞書』の記述により、文久元年九月の生まれであることが判る。
父親の橋本加九十郎(カクジュウロウと読むのであろうか?)について調べると、中央大学が公開している大学関連資料集(国立公文書館所蔵)中に、堺県平民橋本加九十郎「代言代書人を廃する議」不採用一件〔明治八年九月〕なるものがあり、文中には堺県管下河内国第壱大区の副区長となっているから、名家の出であるというのも納得出来よう。
ここからふと思い立って、過去の『日本紳士録』(2007年に無期休刊した我が国で最も長い歴史を持つ人名録で、120年近く刊行が続けられた)を調べてみると、明治33年(1900)刊の第6版に、木村伊太郎と共に敬二郎の名もあり、住所が同じ道修町五丁目101となっていて、これは翌年の第7版でも同様である。
第8版では、敬二郎の名が無くなり、西区江戸堀上通一丁目七一の酒造業者「木村敬三郎」なる人物が登場し、第9版では同じ番地に「木村敬次郎」とあるから、敬三郎やら敬次郎やらは誤植で、我らが敬二郎と同一人と思えなくもないがよく判らぬ。
第10版と第11版は国会図書館に所蔵がないので未確認。
第12版では「木村敬次郎 酒造業 北区綿谷町五」が記載される。
第13版では「木村敬次郎 酒造業 北区綿谷町五」と共に「木村敬二郎 東区伏見町丼池角」が併記され、ここからすると同音異人にも思えるが、第14版では綿屋町の敬次郎は消え、伏見町の敬二郎のみとなる。
転居か何かで情報が統一されず、二人として表記されたのだろうかと思ったが、第15版では再び二名が共に現れており奇怪。
第17版から第30版までは、国会図書館には収蔵されていない為確認出来ず、次に敬二郎が登場するのは、第31版からである。
第31版では堀江の敬次郎は「家主」となっていて、酒造業の敬二郎は天王寺の松ヶ鼻が所在となっている。
第34版からは、堀江の敬二郎は船具屋となっており、酒造業の敬二郎は眞法院八八に転居。
酒造業の木村敬二郎は、昭和7年の第36版を最後に『日本紳士録』から姿を消す。
『大阪人物辞典』では、「敬二郎は刊行後、間もなく亡くなったと思われる。」としているが、恐らく没年はこの前後であろう。
最後の住まいと思われる「眞法院八八」は、現在の「真法院町18~20街区」であるといい、現地を歩いてみたが、敬二郎の痕跡は結局発見出来ず仕舞いであった。
同書の「木村伊太郎」なる酒造業者の項には、明治二年生まれの姉が文久元年生まれの敬二郎なる人物に嫁いだとあり、この敬二郎は大阪府の平民・橋本加九十郎の二男とある。
『大阪人物辞典』では、訪碑録凡例項の「六十九翁」から逆算して生年を文久元年(1861)と推測しているが、『大阪現代人名辞書』の記述により、文久元年九月の生まれであることが判る。
父親の橋本加九十郎(カクジュウロウと読むのであろうか?)について調べると、中央大学が公開している大学関連資料集(国立公文書館所蔵)中に、堺県平民橋本加九十郎「代言代書人を廃する議」不採用一件〔明治八年九月〕なるものがあり、文中には堺県管下河内国第壱大区の副区長となっているから、名家の出であるというのも納得出来よう。
ここからふと思い立って、過去の『日本紳士録』(2007年に無期休刊した我が国で最も長い歴史を持つ人名録で、120年近く刊行が続けられた)を調べてみると、明治33年(1900)刊の第6版に、木村伊太郎と共に敬二郎の名もあり、住所が同じ道修町五丁目101となっていて、これは翌年の第7版でも同様である。
日本紳士録. 6版(1900年)
第8版では、敬二郎の名が無くなり、西区江戸堀上通一丁目七一の酒造業者「木村敬三郎」なる人物が登場し、第9版では同じ番地に「木村敬次郎」とあるから、敬三郎やら敬次郎やらは誤植で、我らが敬二郎と同一人と思えなくもないがよく判らぬ。
第10版と第11版は国会図書館に所蔵がないので未確認。
第12版では「木村敬次郎 酒造業 北区綿谷町五」が記載される。
日本紳士録. 13版(1909年)
第13版では「木村敬次郎 酒造業 北区綿谷町五」と共に「木村敬二郎 東区伏見町丼池角」が併記され、ここからすると同音異人にも思えるが、第14版では綿屋町の敬次郎は消え、伏見町の敬二郎のみとなる。
転居か何かで情報が統一されず、二人として表記されたのだろうかと思ったが、第15版では再び二名が共に現れており奇怪。
日本紳士録. 16版(1911年)
第17版から第30版までは、国会図書館には収蔵されていない為確認出来ず、次に敬二郎が登場するのは、第31版からである。
日本紳士録. 31版(1927年)
第31版では堀江の敬次郎は「家主」となっていて、酒造業の敬二郎は天王寺の松ヶ鼻が所在となっている。
日本紳士録. 34版(1930年)
第34版からは、堀江の敬二郎は船具屋となっており、酒造業の敬二郎は眞法院八八に転居。
日本紳士録. 38版(1934年)
酒造業の木村敬二郎は、昭和7年の第36版を最後に『日本紳士録』から姿を消す。
『大阪人物辞典』では、「敬二郎は刊行後、間もなく亡くなったと思われる。」としているが、恐らく没年はこの前後であろう。
最後の住まいと思われる「眞法院八八」は、現在の「真法院町18~20街区」であるといい、現地を歩いてみたが、敬二郎の痕跡は結局発見出来ず仕舞いであった。
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