山梨稲川の墓
- 2016/12/26
- 18:26
山梨稲川墓(崇福寺/静岡市駿河区稲川1-3-17)
山梨稲川(1771~1826)という学者の存在を庵主に知らしめたのは、湖南の『先哲の学問』であった。
本来なら、昨年説文解字に触れたついでに其の墓所をご紹介したかったところなのだが、掃苔が叶ったのはつい先日のことである。
山梨稲川は、明和八年に山梨維亮の四男として生まれ、名は治憲、字は玄度・叔子、通称を東平といい、稲川・昆陽山人・不如無斎・於陵子・煙霞都尉・山野聱民と号した。
江戸で陰山豊洲(1750~1809)に師事して古文辞学を修め、帰郷後は独学研鑽した。
壮年期に本居宣長の字音研究に触発され、中国古音の研究を志し、説文解字および音韻学に精通したが、研究の成果を世に問うべく江戸に出府するも、まもなく痢病を得て同地で客死。
稲川先生山梨君墓銘(宝泰寺/静岡市葵区伝馬町12-2)
稲川は片田舎に引き籠って独自に学問を追及した人であったから、その晩年まで江戸の学者にさえ殆ど知られていなかったが、その非凡を認めて早くから交際した二人の親友が、すなわち松崎慊堂と狩谷棭斎で、晩年江戸に出たのも二人の度重なる説得によるものだったらしい。
宝泰寺には慊堂撰・棭斎書の顕彰碑が現存しており、二人の稲川を尊敬する気持ちが如何程強いものであったかを今日に伝えている。
崇福寺の墓は、大正5、6年頃に玄孫山梨昌明によって宝泰寺より移されたもの。
スポンサーサイト