加上説から見た古代支那思想
- 2017/01/28
- 00:38
経書の中でも、易経には伏羲やら文王といったカリスマ的な要素が取り分け多く絡み付いているが、このようなハッタリを効かせなければならなかったという辺りにも、その出現の遅いことが窺われる。
内藤湖南は、富永仲基の加上説を中国思想史に適用して大変面白い考察を加えているので、ご紹介したい。
この説によれば、中国で最初に学問を興したのは孔子であり、孔子時代の人が自信をもって語りうる歴史は殷周革命の頃までしか遡ることができなかった。
そして孔子が最も尊敬した歴史的人物は周公であり、周公は新王朝周のために完全な制度をたてて後世に遺したが、それが次第に堕落してきたので、これを周公の昔に返すことをもって自己の任務と考えていた。
いいかえれば、孔子の考えた歴史は、周公から始まっていたのである。
然るに孔子より少し遅れて、孔子に対して異説を唱え、一派の学問を興したのが墨子である。
墨子は孔子の儒教に勝たんがために、儒教で尊崇する始祖周公よりも勝れたる人物夏の禹王をもって自派学問の祖と定めた。
中国においては、年代的に古い時代ほど立派な時代と考えられる傾向があったので、より古い起原をもつ墨子学派は、より新しい始祖をもつ儒教よりも、ずっと完全なものであるというのがその論拠であった。
博士によれば、これがすなわち富永仲基のいわゆる「加上」の一例にすぎず、この場合、周公の前に禹王が加上されたことは、むしろ、儒教よりも墨子学派の方が新しく成立した証拠になると考うべきだとする。
「加上」はさらに進展する。
儒教の中から現われ、墨子を異端と攻撃し、孔子の道を明らかにすることを目的とした孟子は、新しく理想的な人物を求めて、これを堯・舜なる二人の帝王に見出した。
堯は帝位を私しないで舜に譲り、舜はこれを禹に譲ったのは、その徳の高い証拠である。
然るに禹はその子の啓に位を伝え、以後帝位が世襲となったのは、明らかにその徳が衰えたからである。
故に禹以後は主権者が王と称するに対し、堯・舜はさらに高い称号の帝をもってよばれたのであった。
儒教の起原は周公からでなく、さらに古い堯・舜まで遡るものである、というのが孟子の主張であった。
孟子の次に道家、すなわち老子の思想が起った。
普通に老子をもって、孔子と同時代の人で、孔子の師であったとするのは、道家が儒教に勝たんとするための作為であり、これも「加上」の一種に外ならない。
その実、道家の思想は孟子以後に成立したものと見るべく、さればこそ道家においては、その学問の淵源を、堯・舜よりもさらに古い黄帝に求めようとするのである。
この後に盛んとなった農家はその学問の祖を神農に求めた。
最後に易学が興り、その祖を伏羲とした。
易学はもと儒教と関係のない学派であったが、戦国時代の末頃になって儒教の中に採り入れられ、易経が儒教経典の一つとして認められるようになった。
このように儒教ははなはだ包容力に富む学派なので、以上に述べた異なる学派の始祖をも歴史的人物として儒教の聖人の中に加え、ここに儒教的な歴史体系が成立した。
上の表においてはなはだ興味ある事実が認められる。
というのは、成立した歴史において、最も古い時代におかれる帝王ほど、それが歴史事実に仕立て上げられた時代は新しいことである。
これは中国古代史も「加上」によって成立した結果である。
従って中国の史書に記されている古代帝王のうち、夏なる名の王朝あたりまでは、何らかの漠然たる記憶が残っていたものによったかも知れないが、それ以上は歴史としては全く怪しいのであって、単なる伝説上の人物であったものが、新しい学派の発生と共に、その始祖と見立てられ、歴史年代上に君主たる地位を与えられたにすぎない。
以上が湖南博士の中国古代史に対して抱いていた根本的な見方である。
内藤湖南は、富永仲基の加上説を中国思想史に適用して大変面白い考察を加えているので、ご紹介したい。
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この説によれば、中国で最初に学問を興したのは孔子であり、孔子時代の人が自信をもって語りうる歴史は殷周革命の頃までしか遡ることができなかった。
そして孔子が最も尊敬した歴史的人物は周公であり、周公は新王朝周のために完全な制度をたてて後世に遺したが、それが次第に堕落してきたので、これを周公の昔に返すことをもって自己の任務と考えていた。
いいかえれば、孔子の考えた歴史は、周公から始まっていたのである。
然るに孔子より少し遅れて、孔子に対して異説を唱え、一派の学問を興したのが墨子である。
墨子は孔子の儒教に勝たんがために、儒教で尊崇する始祖周公よりも勝れたる人物夏の禹王をもって自派学問の祖と定めた。
中国においては、年代的に古い時代ほど立派な時代と考えられる傾向があったので、より古い起原をもつ墨子学派は、より新しい始祖をもつ儒教よりも、ずっと完全なものであるというのがその論拠であった。
博士によれば、これがすなわち富永仲基のいわゆる「加上」の一例にすぎず、この場合、周公の前に禹王が加上されたことは、むしろ、儒教よりも墨子学派の方が新しく成立した証拠になると考うべきだとする。
「加上」はさらに進展する。
儒教の中から現われ、墨子を異端と攻撃し、孔子の道を明らかにすることを目的とした孟子は、新しく理想的な人物を求めて、これを堯・舜なる二人の帝王に見出した。
堯は帝位を私しないで舜に譲り、舜はこれを禹に譲ったのは、その徳の高い証拠である。
然るに禹はその子の啓に位を伝え、以後帝位が世襲となったのは、明らかにその徳が衰えたからである。
故に禹以後は主権者が王と称するに対し、堯・舜はさらに高い称号の帝をもってよばれたのであった。
儒教の起原は周公からでなく、さらに古い堯・舜まで遡るものである、というのが孟子の主張であった。
孟子の次に道家、すなわち老子の思想が起った。
普通に老子をもって、孔子と同時代の人で、孔子の師であったとするのは、道家が儒教に勝たんとするための作為であり、これも「加上」の一種に外ならない。
その実、道家の思想は孟子以後に成立したものと見るべく、さればこそ道家においては、その学問の淵源を、堯・舜よりもさらに古い黄帝に求めようとするのである。
この後に盛んとなった農家はその学問の祖を神農に求めた。
最後に易学が興り、その祖を伏羲とした。
易学はもと儒教と関係のない学派であったが、戦国時代の末頃になって儒教の中に採り入れられ、易経が儒教経典の一つとして認められるようになった。
このように儒教ははなはだ包容力に富む学派なので、以上に述べた異なる学派の始祖をも歴史的人物として儒教の聖人の中に加え、ここに儒教的な歴史体系が成立した。
上の表においてはなはだ興味ある事実が認められる。
というのは、成立した歴史において、最も古い時代におかれる帝王ほど、それが歴史事実に仕立て上げられた時代は新しいことである。
これは中国古代史も「加上」によって成立した結果である。
従って中国の史書に記されている古代帝王のうち、夏なる名の王朝あたりまでは、何らかの漠然たる記憶が残っていたものによったかも知れないが、それ以上は歴史としては全く怪しいのであって、単なる伝説上の人物であったものが、新しい学派の発生と共に、その始祖と見立てられ、歴史年代上に君主たる地位を与えられたにすぎない。
以上が湖南博士の中国古代史に対して抱いていた根本的な見方である。
(宮崎市定著『中国に学ぶ』289~291頁)
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