易と陰陽五行①
- 2017/02/01
- 22:02
東洋諸学の根底には陰陽五行説があり、加えて、易が諸学の源流になったとする通説から、陰陽五行説もまた易に端を発したもののように思っている人が少なくないようである。
以前、目黒玄龍子の高弟であった竹安輝高先生の『八面体質論詳解』序文を紹介したことがあるが、
易のイロハを学んでいなかったら、こんなふうにはならなかっただろう。その後「蒙色望診」「八面」の研究に入ったが、基礎は陰陽・五行にあることを知っていたから、進むことができたのである。
と、紀藤門で易を学んだ竹安先生ですら、易と陰陽五行を関連付けるような記述をされているようだ。
しかし、易と陰陽五行とは本来関係が無く、陰陽と五行も又それぞれ別個の思想であったのが、後に融合して易に付会されたものらしい。
このように書けば、五行は兎も角として、易を構成するのは陰陽両儀の二爻ではないかという反論が出るかも知れぬ。
実際、『荘子』天下篇には「易は以って陰陽をいう」とあり、朱子もまた「易とはただ陰陽の二字である」と言っている。
しかし、卦爻辞の中には思想としての陰陽を感じさせるようなものは見えず、また、今日陽爻を ― で、陰爻を - - で表すのは周知ながら、近年、青銅器や甲骨などの出土物から数字によって画卦を表した所謂数字卦が多数発見され、馬王堆帛書の周易に於ける陰爻も、数字の八に似た形をしており(研究者によっては六とも)、帛書周易の易卦は、数字卦から現在の易卦への過渡的な形態とする説さえ主張されるようになっている。
それに、陰陽が単なる二元論を超えて自然哲学的な陰陽思想にまで高められるのは、繋辞伝以降であって、善悪といった単なる二元論は自然発生的にどこの文化にも認められるもので、易と必ずしも関係付けられるものではなく、易の成立発展を推察する限り、もともと易から陰陽の思想が出たとは言えないようだ。
また、「陰陽」という易の用語自体も比較的新しいものであることは、今日広く知られるところである。
経文には陰陽の語は見えず、唯一「陰」字の現れるのは、中孚九二の「鳴鶴在陰」であるが、この陰は陰陽思想とは関係が無く、単なる「日陰」「暗い処」の意味であり、『詩経』等の用例を見ても、古い時代の陰陽は日陰・日向の意に用いられているに過ぎず、『論語』や『孟子』にも陰陽の語は全く見えていない。
易において、陰陽よりも古い二元的用語は「剛・柔」で、彖伝は悉く「剛・柔」を以て易卦を説く。
しかし、その「剛・柔」の内容は、まだ相対立する二元論的な考え方で、繋辞伝に於ける陰陽思想の如き循環論的な展開を見せていない。
その繋辞伝でさえ、用字回数を見ると、剛=11回、柔=13回、陰=9回、陽=9回という風に、剛柔の語がより多く用いられており、剛柔から陰陽への過渡期にあるものと推測される(文言伝では、剛=4回、柔=1回、陰=2回、陽=3回で、数の合計の上では拮抗している)。
易が元来剛柔思想で、陰陽思想は易本来のものでないことは、早くに武内義雄先生(1886~1966)の指摘されたところで、陰陽思想が易に取り入れられるに及び、剛柔の相対が陰陽によって説明されるようになったのだという。
陰陽五行説は漢代に特に盛行したが、漢易研究の大家・鈴木由次郎先生(1901~1976)は、十翼中の陰陽思想に関する部分は田何(漢初)をはじめとして田何の易統を受けた人々の手によって作成されたものではないかと推測し、田何が斉人(鄒衍もまた斉人)であり、斉学の風気の中に育った人であるにおいてはなおさらその感を深くする、と述べておられるが、馬王堆帛書中の繋辞伝には、すでに陰陽思想が見えているので、田何以前に既に易は陰陽思想を取りこんでいたのではないかと思う(馬王堆帛書は少なくとも筆写年代が漢初であって、成書年代は更に遡ることが出来ると思う)。
陰陽と易との関係について面白い説を立てておられるのが、元秋田大学教授の田口福司朗先生(1896~1985)で、陰陽の原義は、日当と日蔭、天気の曇るのと晴れるのとを云ったもので、晴雨を占うために蜥蜴の体色の変化を見たのが、後世になるにつれて、天気の晴雨を指した陰陽が哲学的に高められて老子の陰陽思想となり、それが占筮に入って易の陰陽思想となったのだろうと云い、この陰陽思想は、蜥蜴によって天気の晴雨を占った地方、即ち蜥蜴の棲んでいた地方から起こったものらしく、それがちょうど楚の地方(老子は楚人)に当たっているようである、としておられる。
味わうべき一説であろう。
以前、目黒玄龍子の高弟であった竹安輝高先生の『八面体質論詳解』序文を紹介したことがあるが、
易のイロハを学んでいなかったら、こんなふうにはならなかっただろう。その後「蒙色望診」「八面」の研究に入ったが、基礎は陰陽・五行にあることを知っていたから、進むことができたのである。
と、紀藤門で易を学んだ竹安先生ですら、易と陰陽五行を関連付けるような記述をされているようだ。
しかし、易と陰陽五行とは本来関係が無く、陰陽と五行も又それぞれ別個の思想であったのが、後に融合して易に付会されたものらしい。
このように書けば、五行は兎も角として、易を構成するのは陰陽両儀の二爻ではないかという反論が出るかも知れぬ。
実際、『荘子』天下篇には「易は以って陰陽をいう」とあり、朱子もまた「易とはただ陰陽の二字である」と言っている。
しかし、卦爻辞の中には思想としての陰陽を感じさせるようなものは見えず、また、今日陽爻を ― で、陰爻を - - で表すのは周知ながら、近年、青銅器や甲骨などの出土物から数字によって画卦を表した所謂数字卦が多数発見され、馬王堆帛書の周易に於ける陰爻も、数字の八に似た形をしており(研究者によっては六とも)、帛書周易の易卦は、数字卦から現在の易卦への過渡的な形態とする説さえ主張されるようになっている。
それに、陰陽が単なる二元論を超えて自然哲学的な陰陽思想にまで高められるのは、繋辞伝以降であって、善悪といった単なる二元論は自然発生的にどこの文化にも認められるもので、易と必ずしも関係付けられるものではなく、易の成立発展を推察する限り、もともと易から陰陽の思想が出たとは言えないようだ。
また、「陰陽」という易の用語自体も比較的新しいものであることは、今日広く知られるところである。
経文には陰陽の語は見えず、唯一「陰」字の現れるのは、中孚九二の「鳴鶴在陰」であるが、この陰は陰陽思想とは関係が無く、単なる「日陰」「暗い処」の意味であり、『詩経』等の用例を見ても、古い時代の陰陽は日陰・日向の意に用いられているに過ぎず、『論語』や『孟子』にも陰陽の語は全く見えていない。
易において、陰陽よりも古い二元的用語は「剛・柔」で、彖伝は悉く「剛・柔」を以て易卦を説く。
しかし、その「剛・柔」の内容は、まだ相対立する二元論的な考え方で、繋辞伝に於ける陰陽思想の如き循環論的な展開を見せていない。
その繋辞伝でさえ、用字回数を見ると、剛=11回、柔=13回、陰=9回、陽=9回という風に、剛柔の語がより多く用いられており、剛柔から陰陽への過渡期にあるものと推測される(文言伝では、剛=4回、柔=1回、陰=2回、陽=3回で、数の合計の上では拮抗している)。
易が元来剛柔思想で、陰陽思想は易本来のものでないことは、早くに武内義雄先生(1886~1966)の指摘されたところで、陰陽思想が易に取り入れられるに及び、剛柔の相対が陰陽によって説明されるようになったのだという。
陰陽五行説は漢代に特に盛行したが、漢易研究の大家・鈴木由次郎先生(1901~1976)は、十翼中の陰陽思想に関する部分は田何(漢初)をはじめとして田何の易統を受けた人々の手によって作成されたものではないかと推測し、田何が斉人(鄒衍もまた斉人)であり、斉学の風気の中に育った人であるにおいてはなおさらその感を深くする、と述べておられるが、馬王堆帛書中の繋辞伝には、すでに陰陽思想が見えているので、田何以前に既に易は陰陽思想を取りこんでいたのではないかと思う(馬王堆帛書は少なくとも筆写年代が漢初であって、成書年代は更に遡ることが出来ると思う)。
陰陽と易との関係について面白い説を立てておられるのが、元秋田大学教授の田口福司朗先生(1896~1985)で、陰陽の原義は、日当と日蔭、天気の曇るのと晴れるのとを云ったもので、晴雨を占うために蜥蜴の体色の変化を見たのが、後世になるにつれて、天気の晴雨を指した陰陽が哲学的に高められて老子の陰陽思想となり、それが占筮に入って易の陰陽思想となったのだろうと云い、この陰陽思想は、蜥蜴によって天気の晴雨を占った地方、即ち蜥蜴の棲んでいた地方から起こったものらしく、それがちょうど楚の地方(老子は楚人)に当たっているようである、としておられる。
味わうべき一説であろう。
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