易と陰陽五行②
- 2017/02/04
- 11:31
先に、陰陽思想が易本来のものでないことを見たが、五行もまた同様に、易とは無関係のものである。
今では一つの熟語のように用いられる「陰陽五行」も、それぞれ起源を異にする二つの学派であり、『漢書』芸文志も又、陰陽家と五行家とを別個に立てていることが知られる。
しかし、戦国時代には殆ど同一系統といって良いほどに関係を深めたらしく思われ、例えば、鄒衍は『漢書』芸文志では陰陽家の内に入れられていて、其の書も陰陽家に著録されている一方、五行家の条には、「其法亦起五徳終始」とあって、鄒衍は陰陽家であると同時に、五行家でもあったと言うことが出来よう。
戦国時代末の『呂氏春秋』では、干支の十干に陰陽論と五行説を導入しており、此の頃になると、陰陽論と五行説の結合は一般化しているように思われるが、かかる陰陽五行が戦国時代に盛行したとはいえ、まだ諸学悉くが其の影響を被った訳ではないようで、例えば、漢初の諸制度の制定に中心的役割を果たした叔孫通の定めた礼には五行の色彩は認められず、あまり五行の影響を受けた人には思われない。
また、新城新蔵博士(1873~1938)によると、五行は尚書の洪範より出るとは言え、古くは火水金木土穀を以て人生に必須なる六府と数えており、それに基づいた六行説が漢初まで見えているという。
実際に、経学が本格的に陰陽五行思想を以て展開されるのは、董仲舒以降で、董は公羊春秋を陰陽五行思想で解釈した斉学派の学者であり、武帝以後の経学は大体斉学中心となって、前漢の経学は斉学派が代表するのである。
そうした時代背景の中で、漢代の易学家は、卦爻辞を解釈する為に五行をも駆使し、例えば、火山旅九四や巽為風上九の“斧”について、互兌の金に互巽の木の柄が附いて居るので、斧の象とするなどという見方が出てくる訳だが、このような手法で全ての辞が解釈出来る訳でも無ければ、変爻等まで併用し出すと、牽強付会に陥るのは避けがたい。
そもそも、易の解釈の第一は十翼である筈だが、そこには五行思想が全く見えていないのである。
今では一つの熟語のように用いられる「陰陽五行」も、それぞれ起源を異にする二つの学派であり、『漢書』芸文志も又、陰陽家と五行家とを別個に立てていることが知られる。
しかし、戦国時代には殆ど同一系統といって良いほどに関係を深めたらしく思われ、例えば、鄒衍は『漢書』芸文志では陰陽家の内に入れられていて、其の書も陰陽家に著録されている一方、五行家の条には、「其法亦起五徳終始」とあって、鄒衍は陰陽家であると同時に、五行家でもあったと言うことが出来よう。
戦国時代末の『呂氏春秋』では、干支の十干に陰陽論と五行説を導入しており、此の頃になると、陰陽論と五行説の結合は一般化しているように思われるが、かかる陰陽五行が戦国時代に盛行したとはいえ、まだ諸学悉くが其の影響を被った訳ではないようで、例えば、漢初の諸制度の制定に中心的役割を果たした叔孫通の定めた礼には五行の色彩は認められず、あまり五行の影響を受けた人には思われない。
また、新城新蔵博士(1873~1938)によると、五行は尚書の洪範より出るとは言え、古くは火水金木土穀を以て人生に必須なる六府と数えており、それに基づいた六行説が漢初まで見えているという。
実際に、経学が本格的に陰陽五行思想を以て展開されるのは、董仲舒以降で、董は公羊春秋を陰陽五行思想で解釈した斉学派の学者であり、武帝以後の経学は大体斉学中心となって、前漢の経学は斉学派が代表するのである。
そうした時代背景の中で、漢代の易学家は、卦爻辞を解釈する為に五行をも駆使し、例えば、火山旅九四や巽為風上九の“斧”について、互兌の金に互巽の木の柄が附いて居るので、斧の象とするなどという見方が出てくる訳だが、このような手法で全ての辞が解釈出来る訳でも無ければ、変爻等まで併用し出すと、牽強付会に陥るのは避けがたい。
そもそも、易の解釈の第一は十翼である筈だが、そこには五行思想が全く見えていないのである。
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