二遍筮について
- 2017/02/12
- 15:00
1961年、光文社のカッパブックスより、易占分野における戦後最大のベストセラーとなる書物が上梓された。
言わずと知れた黄小娥女史の『易入門』である。
この本は、爻を求めず、大成卦のみで占断するという簡便に加え、筮竹を用いる代わりに、10円玉6枚を一度に投げて立卦する擲銭法を打ち出した為、これまで易という難解な占術に無縁であった一般大衆に広く受け入れられる結果となった。
その煽りを受けて、岩波文庫『易経』まで品切れになったといい、『易入門』ブームが如何程のものであったかを窺わせる。
しかし、このブーム、大衆には受けたが、占業界からは総スカンを食ってしまった。
手元に「黄小娥『易(えき)入門』に対する批判論評」という特集が掲載された『易学研究』誌があり、当時の易者諸氏(ただし岳易限定)が如何に本書を迎えたかがよく判って面白い。
好意的な論評は殆ど無く、大抵ボロクソにこき下ろされているのだが、批判の矛先は寧ろ著者よりも、小見出しのキャッチフレーズで著者を「日本一の易者」と持ち上げた高木彬光氏に向けられていて、その後、同誌で高木氏が「わが反論」と題して、キャッチフレーズは出版社が自分の名前で勝手に書いた部分であるとして、言い訳を試みているが、著者を持ち上げた(とされる)高木氏が叩かれた最大の理由は、黄氏が岳易の系譜に連なる易者だったからではないかと思われる。
“謎の美人易者・黄小娥”というのは、出版社サイドの巧みな戦略に過ぎず、実際は熊本生まれの川津久佳という日本人のオバちゃんで、紀藤元之介先生の門下だという(大岳門としている人もいるが、私が調べた限り、紀藤門とするのが正しいようだ)。
近代易を標榜する岳易の徒にとって、こんなおみくじ占を扱った本がベストセラーなどになっては、同門として甚だ面白からぬことであろうし、幾らでも格上の占者が居る岳門において、諸先輩方を差し置いて、こんなおみくじ本の著者如きが「日本一の易者」と褒め称えられては、口汚く罵りたくなるのも無理はない。
もっとも、川津女史には普段から不遜な振る舞いがあったらしく、あまり快く思われていた人物ではなかったらしい。
肝心の内容についての正鵠を射た批判では、何と言っても変を求めず、大成卦のみで占断する点がやり玉に挙げられており、易の変を取り上げぬやり方は、「易をカタワにした」と攻撃されている。
しかし、後に此の大成卦のみで占う易法を「二遍筮」として肯定的に捉えられたのが、今は亡き広瀬宏道先生であった。
先生は、簡易なるものが、あながち安直なものとは言えないとして、二回の揲筮により(昨今の人は八面賽二個を一擲するであろうが、先生は筮竹オンリーで簡易立卦具は用いられなかった)大成卦のみを出して占考する筮法を再評価すべきだとしておられた。
『易学研究』や『実占研究』に発表された占例は殆ど四遍筮によるものであったが、初めて庵主がお目にかかった折、日常自分自身のことを占う場合は、もっぱら二遍筮法を用いていると話されたのをよく覚えている。
ただし、先生の二遍筮は互卦をも非常に重く観て利用するものであったのが印象的だ。
参考までに、過去記事で紹介した先生の占例をリンクしておく。
また、以前庵主も交流があった“池袋の父”武隈天命先生も、二遍筮ではないが、大成卦を非常に重視される観卦法で有名で、三変筮においても判断は卦八割、爻二割であるということだ。
実は、武隈先生の易の原点は『易入門』で、初め良く的中していたのを、その後、深く易を学ぶに連れて、爻を観るようになると、的中率が低下してしまったそうで、また原点に戻って卦意での占考をするようになったといい、先生の流儀では、或る卦を得たら何爻だろうが、判断は基本的にそう変わらないらしい。
これなどは、四遍筮法に紀藤先生の原点である白蛾易の影響が残存したように、その人のスタート地点の流儀が終生影響力を持ち続ける好例であろうが、“池袋の父”の如き名占家も又二遍筮に近い占法家であることを記しておきたいと思う。
ところで、黄小娥女史の『易入門』は、内容としては変易の観点から批判を受けた訳だが、易において盛んに変を強調するのは繋辞伝であり、繋辞伝以前にあまり変ということを謂わなかったとすれば、二遍筮もさして非難されるべきものではないのではという気がする。
また、爻辞というのは何やらよく判らぬところだらけの奇妙なものであるが、これらの辞が繋けられた時点では、変というものがまだ意識されていなかったのではないかと思われるフシがあって、なんとなれば、変を意識すれば、変卦との整合性の取れた辞の繋けようが幾らでもありそうなものだが、実際にはそのようにはなっておらず、今日我々が一爻変の占において、辞を採るか、之卦を採るかで、屡々迷わされるのも、この辺りから来ているように思う。
言わずと知れた黄小娥女史の『易入門』である。
この本は、爻を求めず、大成卦のみで占断するという簡便に加え、筮竹を用いる代わりに、10円玉6枚を一度に投げて立卦する擲銭法を打ち出した為、これまで易という難解な占術に無縁であった一般大衆に広く受け入れられる結果となった。
その煽りを受けて、岩波文庫『易経』まで品切れになったといい、『易入門』ブームが如何程のものであったかを窺わせる。
しかし、このブーム、大衆には受けたが、占業界からは総スカンを食ってしまった。
手元に「黄小娥『易(えき)入門』に対する批判論評」という特集が掲載された『易学研究』誌があり、当時の易者諸氏(ただし岳易限定)が如何に本書を迎えたかがよく判って面白い。
好意的な論評は殆ど無く、大抵ボロクソにこき下ろされているのだが、批判の矛先は寧ろ著者よりも、小見出しのキャッチフレーズで著者を「日本一の易者」と持ち上げた高木彬光氏に向けられていて、その後、同誌で高木氏が「わが反論」と題して、キャッチフレーズは出版社が自分の名前で勝手に書いた部分であるとして、言い訳を試みているが、著者を持ち上げた(とされる)高木氏が叩かれた最大の理由は、黄氏が岳易の系譜に連なる易者だったからではないかと思われる。
“謎の美人易者・黄小娥”というのは、出版社サイドの巧みな戦略に過ぎず、実際は熊本生まれの川津久佳という日本人のオバちゃんで、紀藤元之介先生の門下だという(大岳門としている人もいるが、私が調べた限り、紀藤門とするのが正しいようだ)。
近代易を標榜する岳易の徒にとって、こんなおみくじ占を扱った本がベストセラーなどになっては、同門として甚だ面白からぬことであろうし、幾らでも格上の占者が居る岳門において、諸先輩方を差し置いて、こんなおみくじ本の著者如きが「日本一の易者」と褒め称えられては、口汚く罵りたくなるのも無理はない。
もっとも、川津女史には普段から不遜な振る舞いがあったらしく、あまり快く思われていた人物ではなかったらしい。
肝心の内容についての正鵠を射た批判では、何と言っても変を求めず、大成卦のみで占断する点がやり玉に挙げられており、易の変を取り上げぬやり方は、「易をカタワにした」と攻撃されている。
しかし、後に此の大成卦のみで占う易法を「二遍筮」として肯定的に捉えられたのが、今は亡き広瀬宏道先生であった。
先生は、簡易なるものが、あながち安直なものとは言えないとして、二回の揲筮により(昨今の人は八面賽二個を一擲するであろうが、先生は筮竹オンリーで簡易立卦具は用いられなかった)大成卦のみを出して占考する筮法を再評価すべきだとしておられた。
『易学研究』や『実占研究』に発表された占例は殆ど四遍筮によるものであったが、初めて庵主がお目にかかった折、日常自分自身のことを占う場合は、もっぱら二遍筮法を用いていると話されたのをよく覚えている。
ただし、先生の二遍筮は互卦をも非常に重く観て利用するものであったのが印象的だ。
参考までに、過去記事で紹介した先生の占例をリンクしておく。
また、以前庵主も交流があった“池袋の父”武隈天命先生も、二遍筮ではないが、大成卦を非常に重視される観卦法で有名で、三変筮においても判断は卦八割、爻二割であるということだ。
実は、武隈先生の易の原点は『易入門』で、初め良く的中していたのを、その後、深く易を学ぶに連れて、爻を観るようになると、的中率が低下してしまったそうで、また原点に戻って卦意での占考をするようになったといい、先生の流儀では、或る卦を得たら何爻だろうが、判断は基本的にそう変わらないらしい。
これなどは、四遍筮法に紀藤先生の原点である白蛾易の影響が残存したように、その人のスタート地点の流儀が終生影響力を持ち続ける好例であろうが、“池袋の父”の如き名占家も又二遍筮に近い占法家であることを記しておきたいと思う。
ところで、黄小娥女史の『易入門』は、内容としては変易の観点から批判を受けた訳だが、易において盛んに変を強調するのは繋辞伝であり、繋辞伝以前にあまり変ということを謂わなかったとすれば、二遍筮もさして非難されるべきものではないのではという気がする。
また、爻辞というのは何やらよく判らぬところだらけの奇妙なものであるが、これらの辞が繋けられた時点では、変というものがまだ意識されていなかったのではないかと思われるフシがあって、なんとなれば、変を意識すれば、変卦との整合性の取れた辞の繋けようが幾らでもありそうなものだが、実際にはそのようにはなっておらず、今日我々が一爻変の占において、辞を採るか、之卦を採るかで、屡々迷わされるのも、この辺りから来ているように思う。
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