本筮法再論
- 2017/02/14
- 18:07
筮竹こそが易占における真の立卦具であるとして、擲賽や擲銭によって卦を起こす占者を上から目線で小馬鹿にする鼻持ちならない筮竹至上主義者とでもいうべき連中が居る。
しかし、先秦の古文献に筮のことが書かれているからといって、筮竹を用いるのが本来だというなら、使用する筮法もまた現在我々が知り得る最も古い筮法すなわち繋辞伝の説く大衍筮法でなくてはならぬはずだが、そんな筮竹主義者でも、メインは三変筮で時に中筮を交えるという程度が殆どらしい。
滑稽なことだ。
加藤大岳氏なども筮竹を用いることを勧めているが、簡易立卦具の安易に卦を起こし過ぎる傾向を惹起せしめる弊害について触れているのは流石の慧眼であると思う。
ところで、筮竹云々は一先ず置いて、此の大衍筮法、易伝の説く唯一の立卦法であるから、筮法を論じる際にこれを等閑視する訳には行かず、三年ほど前にもいわゆる“本筮”についての題で此の筮法に触れたことがある。
本筮の筮儀について詳らかに記述するのは、南宋の大儒・朱子であり、今日の我々は大体において朱子の記述により、此の筮法を理解している訳だが、「繋辞伝」大衍之数章の読み方によって筮儀には幾つかの異説が唱えられていること、また、中筮と本筮では変爻の確率こそ同じであるが、本筮特有の揲筮操作により、老陽の生起数が老陰の生起数の三倍になるという不均衡が生じることも以前ご紹介した。
使用する筮策を真勢易で説くように49本から48本にすることで、この不均衡は中筮と等価に是正されるが、江藤幸彦氏は「陽を主として陰を従とする考え方などを考慮すれば古人の深慮が含まれた筮法なのかもしれない。」(「筮法の確率論的基礎」)と云い、必ずしも単純な確率論からのみ中筮を優位と断ずることは避け、古人の深淵な意図の介在に含みを持たせている。
紀藤元之介氏は、未完に終わった『実占研究』誌上の連載「易占・一年生」の第49回で、四十九策の穏当について論じているが、左の地策に一を掛け、それを八払いして八卦を出した後、天策の分を数えると、これが丁度地策の裏に当たっていることに着目し(乾の卦を得たとき、天策の残数はその裏の坤となり、艮を得たならば、天策の数は兌となっているというように)、他の四十五策や四十八策ではこうはならず、天地陰陽の表裏になっているということ、そして、四十九策は六本の算木の表す数と同じだということは、矢張り筮策は四十九であるべきではないか、としている。
八払いで八卦を出すということは略筮の類であるが、着眼点が流石に面白い。
ところで、本筮法は其の筮儀の全てに暦法に基づいた理論づけがなされており、それが他のメカニカルな筮法に比して圧倒的に優位な深遠さを醸し出している訳だが、鈴木由次郎先生によると、この筮法の理論は一年の日数を365日4分日の1とし、19年に7回の閏年を置く四分暦の知識の上に成り立つものであり、19年7閏の法をもって気朔を調える暦知識は戦国以後のことであるから、繋辞伝に見える十八変筮法の理論は恐らく秦漢の際の暦知識をもとにして作られたものであろうという。
しかし、先秦の古文献に筮のことが書かれているからといって、筮竹を用いるのが本来だというなら、使用する筮法もまた現在我々が知り得る最も古い筮法すなわち繋辞伝の説く大衍筮法でなくてはならぬはずだが、そんな筮竹主義者でも、メインは三変筮で時に中筮を交えるという程度が殆どらしい。
滑稽なことだ。
加藤大岳氏なども筮竹を用いることを勧めているが、簡易立卦具の安易に卦を起こし過ぎる傾向を惹起せしめる弊害について触れているのは流石の慧眼であると思う。
ところで、筮竹云々は一先ず置いて、此の大衍筮法、易伝の説く唯一の立卦法であるから、筮法を論じる際にこれを等閑視する訳には行かず、三年ほど前にもいわゆる“本筮”についての題で此の筮法に触れたことがある。
本筮の筮儀について詳らかに記述するのは、南宋の大儒・朱子であり、今日の我々は大体において朱子の記述により、此の筮法を理解している訳だが、「繋辞伝」大衍之数章の読み方によって筮儀には幾つかの異説が唱えられていること、また、中筮と本筮では変爻の確率こそ同じであるが、本筮特有の揲筮操作により、老陽の生起数が老陰の生起数の三倍になるという不均衡が生じることも以前ご紹介した。
使用する筮策を真勢易で説くように49本から48本にすることで、この不均衡は中筮と等価に是正されるが、江藤幸彦氏は「陽を主として陰を従とする考え方などを考慮すれば古人の深慮が含まれた筮法なのかもしれない。」(「筮法の確率論的基礎」)と云い、必ずしも単純な確率論からのみ中筮を優位と断ずることは避け、古人の深淵な意図の介在に含みを持たせている。
紀藤元之介氏は、未完に終わった『実占研究』誌上の連載「易占・一年生」の第49回で、四十九策の穏当について論じているが、左の地策に一を掛け、それを八払いして八卦を出した後、天策の分を数えると、これが丁度地策の裏に当たっていることに着目し(乾の卦を得たとき、天策の残数はその裏の坤となり、艮を得たならば、天策の数は兌となっているというように)、他の四十五策や四十八策ではこうはならず、天地陰陽の表裏になっているということ、そして、四十九策は六本の算木の表す数と同じだということは、矢張り筮策は四十九であるべきではないか、としている。
八払いで八卦を出すということは略筮の類であるが、着眼点が流石に面白い。
ところで、本筮法は其の筮儀の全てに暦法に基づいた理論づけがなされており、それが他のメカニカルな筮法に比して圧倒的に優位な深遠さを醸し出している訳だが、鈴木由次郎先生によると、この筮法の理論は一年の日数を365日4分日の1とし、19年に7回の閏年を置く四分暦の知識の上に成り立つものであり、19年7閏の法をもって気朔を調える暦知識は戦国以後のことであるから、繋辞伝に見える十八変筮法の理論は恐らく秦漢の際の暦知識をもとにして作られたものであろうという。
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