大衍之数五十
- 2017/02/17
- 20:31
占筮において用いるところの策数五十というのは、言うまでもなく繋辞伝に記された「大衍之数五十」に依る訳だが、此の数についても諸説入り乱れて、まさに百家争鳴の有様である。
京房は、十干・十二支・二十八宿の合計であると云い、馬融は、北辰・両儀・日月・四時・五行・十二月・二十四気の合計であると云うが、この馬融説を採る学者には、王弼・王粛・孔穎達・王安石・程逈らが居り、支持者の多い説のようだ。
また、南宋の大儒・朱子は、河図中宮の天五と地十を掛けた数であるとし、胡渭は、三百六十五日四分の一の畸零を去って、三百六十日と言うように、五十五から五を去ったのだと云う。
荀爽は、一卦六爻に八卦を乗ずれば四十八で、これに乾坤二を加えた数であると云い、加えて、用策四十九は、乾初九の潜龍用ふる勿れとあるところから、その一を五十から引いたものであるとするが、これは面白い説であると思う。
また、鄭玄は天地の数五十五のうち、五行は天にも地にも共通する原理だから、五を減じて五十になるとし、本田済氏なども此の鄭玄説を穏当とするが、鄭玄は加えて五十五から一卦六爻の六を除けば四十九となり、これが用策の数であるとも云っている。
柳沼七郎氏は、『神秘』(『易学研究』誌の前身)に寄せた小文において、筮竹五十本というのは、結局は八卦を同率に出現させるために必要な最小限度であろうと云い、筮竹が十本であれば、八卦が同率に出現することはまずないし、五百本ではより一層確実に率が均一化するけれど、それではあまりに煩瑣に過ぎる訳で、単純に、五十本というのは、手で握ることが出来るちょうど良い数なのだと、実際的な側面からこの数字に落ち着いたものに過ぎないとする。
私見を述べるなら、庵主には最も古い京房の説=十干・十二支・二十八宿の合計が穏当と思われ、うち一本を除くのは太極に象ったものというより、神に捧げたものではないかと思う。
馬融の説は聊か煩瑣に過ぎる嫌いがあり、四十九策との整合を図るために、潜龍勿用を持ち出したり、六爻を引いたりする説は理屈が不自然に感じる。
ところで、1973年に長沙の馬王堆漢墓から出土した帛書『周易』の「繋辞」篇には、今本の「大衍之数」章そのものが無い。
前漢の初めには、まだ大衍筮法そのものが存在しておらず、のちに大衍之数章が付け足されたという可能性もあるが、帛書繋辞篇の祖本(抄写の対象となったオリジナル)には「大衍之数」章があったはずだと推測する歴史学者の廖名春氏(1956~)は、「大衍之数」章が、帛書「繋辞」に無い理由について、まず第一に、帛書「繋辞」と同一の帛上に書かれている数篇の易説、例えば、易之義・要篇等は、卜筮に反対し徳義を観ることを強調するという顕著な傾向があり、このような徳義を重視し筮占を軽視する易学観によって、“大衍之数”筮法のような内容は、帛書「繋辞」の外に排除された可能性が考えられると云い、第二に、“大衍之数”筮法は、先秦時期の代表的な一筮法に過ぎず、ちょうど帛書六十四卦の卦序と今本『周易』の卦序とが異なるように、帛書本が生まれた楚地には異なる筮法があったのかもしれないとする。
帛書『周易』については、近藤浩之氏の「馬王堆漢墓帛書『周易』研究概説」(『中国哲学研究』第8、11、12号所収)が、目下最良の解説書となっており、帛書周易に関する現代諸家の説が詳しく紹介されていて頗る便利なので、帛書『周易』にご興味のある方はこちらを紐解かれるが良かろう。
京房は、十干・十二支・二十八宿の合計であると云い、馬融は、北辰・両儀・日月・四時・五行・十二月・二十四気の合計であると云うが、この馬融説を採る学者には、王弼・王粛・孔穎達・王安石・程逈らが居り、支持者の多い説のようだ。
また、南宋の大儒・朱子は、河図中宮の天五と地十を掛けた数であるとし、胡渭は、三百六十五日四分の一の畸零を去って、三百六十日と言うように、五十五から五を去ったのだと云う。
荀爽は、一卦六爻に八卦を乗ずれば四十八で、これに乾坤二を加えた数であると云い、加えて、用策四十九は、乾初九の潜龍用ふる勿れとあるところから、その一を五十から引いたものであるとするが、これは面白い説であると思う。
また、鄭玄は天地の数五十五のうち、五行は天にも地にも共通する原理だから、五を減じて五十になるとし、本田済氏なども此の鄭玄説を穏当とするが、鄭玄は加えて五十五から一卦六爻の六を除けば四十九となり、これが用策の数であるとも云っている。
柳沼七郎氏は、『神秘』(『易学研究』誌の前身)に寄せた小文において、筮竹五十本というのは、結局は八卦を同率に出現させるために必要な最小限度であろうと云い、筮竹が十本であれば、八卦が同率に出現することはまずないし、五百本ではより一層確実に率が均一化するけれど、それではあまりに煩瑣に過ぎる訳で、単純に、五十本というのは、手で握ることが出来るちょうど良い数なのだと、実際的な側面からこの数字に落ち着いたものに過ぎないとする。
私見を述べるなら、庵主には最も古い京房の説=十干・十二支・二十八宿の合計が穏当と思われ、うち一本を除くのは太極に象ったものというより、神に捧げたものではないかと思う。
馬融の説は聊か煩瑣に過ぎる嫌いがあり、四十九策との整合を図るために、潜龍勿用を持ち出したり、六爻を引いたりする説は理屈が不自然に感じる。
ところで、1973年に長沙の馬王堆漢墓から出土した帛書『周易』の「繋辞」篇には、今本の「大衍之数」章そのものが無い。
前漢の初めには、まだ大衍筮法そのものが存在しておらず、のちに大衍之数章が付け足されたという可能性もあるが、帛書繋辞篇の祖本(抄写の対象となったオリジナル)には「大衍之数」章があったはずだと推測する歴史学者の廖名春氏(1956~)は、「大衍之数」章が、帛書「繋辞」に無い理由について、まず第一に、帛書「繋辞」と同一の帛上に書かれている数篇の易説、例えば、易之義・要篇等は、卜筮に反対し徳義を観ることを強調するという顕著な傾向があり、このような徳義を重視し筮占を軽視する易学観によって、“大衍之数”筮法のような内容は、帛書「繋辞」の外に排除された可能性が考えられると云い、第二に、“大衍之数”筮法は、先秦時期の代表的な一筮法に過ぎず、ちょうど帛書六十四卦の卦序と今本『周易』の卦序とが異なるように、帛書本が生まれた楚地には異なる筮法があったのかもしれないとする。
帛書『周易』については、近藤浩之氏の「馬王堆漢墓帛書『周易』研究概説」(『中国哲学研究』第8、11、12号所収)が、目下最良の解説書となっており、帛書周易に関する現代諸家の説が詳しく紹介されていて頗る便利なので、帛書『周易』にご興味のある方はこちらを紐解かれるが良かろう。
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