蓍筮の起源について~其の壱~
- 2017/03/08
- 22:44
易筮は一体いつ頃から行われていた占術であるのか、はっきりした事はよく判っていない。
伏羲や文王と絡めた作易の説話はもとより信ずるに足らず、正確な年代を決定する基準となるような資料の出土物を含めて意外に乏しいことは驚くばかりである(近年注目されている数字卦は、多くが甲骨史料中に見出されている為、亀卜との関係を没却出来ない憾みがあり、今日易筮と短絡的に結び付けたがる傾向があまりに顕著である点、聊か危なっかしいものを感じざるを得ない)。
しかし、中国よりも少し西の方角に目を向けてみると、興味深い幾らかの手がかりが無いこともない。
前五世紀の古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは、其の著『歴史』のスキタイの項において、多数の柳の枝を用いて行う易筮様の占術について記し、相馬隆氏(1936~)は「私はこのヘロドトスにおけるスキタイの筮師とその筮占の法こそ、中国春秋・戦国以来の占卜の影響を受けて発達し、イラン系遊牧諸族を担い手として黒海周辺まで運ばれた筮占法で直接的に中国的算木法の流れを汲むものだと考えるのである。」(「スキタイ筮占考」)と言っているが、種々の文化の伝播経路を思うとき、もしスキタイの筮占と中国の易筮との間に関連があるとするなら、中央アジアや西アジアあたりに起源を持つ占術が東西に伝播したもので、中国から西方への一方的な伝播であったとは私には思われない。
最近、易筮と土占術(ジオマンシー)との類似性が指摘されているが、土占術はそれほど古くまで起源を遡り得る手がかりは無いようであるし、素朴な卜術はさして複雑な機構を持たないから、自然発生的な偶然の類似ということもあろう。
辺境アジアは一先ず置いて、中国の文献から蓍筮の起源を類推するなら、其の前身としてまず怪しむべきものは、「算籌(さんちゅう)」であると言って良い。
繋辞伝の記述を読み解く限り、大衍筮法は暦算に関係したものである気配が濃厚に漂っており、筮は御神籤というよりも計数具として機能していることが明らかだ。
中国では春秋時代から算籌と呼ばれる計算用具があり、考古資料としての算籌は古いものでは前漢時代の遺物が発掘されている(ひょっとすると現在は更に古いものが見出されているやも知れぬが庵主不案内)。
対馬では比較的最近まで亀卜の法が遺っていたことは、広く知られたところであるが、対馬の人々は、明治頃まで、算木状の計数具を50~60本束ねたものを常に腰に下げていたといい、長く亀卜の行われた対馬において此のようなものが携帯されていたというのは興味深い点であるし、対馬では今でも御盆に仏様の箸としてメドハギの茎を用いるということを最近知ったが、これも併せて庵主は非常な興味を覚える。
伏羲や文王と絡めた作易の説話はもとより信ずるに足らず、正確な年代を決定する基準となるような資料の出土物を含めて意外に乏しいことは驚くばかりである(近年注目されている数字卦は、多くが甲骨史料中に見出されている為、亀卜との関係を没却出来ない憾みがあり、今日易筮と短絡的に結び付けたがる傾向があまりに顕著である点、聊か危なっかしいものを感じざるを得ない)。
しかし、中国よりも少し西の方角に目を向けてみると、興味深い幾らかの手がかりが無いこともない。
前五世紀の古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは、其の著『歴史』のスキタイの項において、多数の柳の枝を用いて行う易筮様の占術について記し、相馬隆氏(1936~)は「私はこのヘロドトスにおけるスキタイの筮師とその筮占の法こそ、中国春秋・戦国以来の占卜の影響を受けて発達し、イラン系遊牧諸族を担い手として黒海周辺まで運ばれた筮占法で直接的に中国的算木法の流れを汲むものだと考えるのである。」(「スキタイ筮占考」)と言っているが、種々の文化の伝播経路を思うとき、もしスキタイの筮占と中国の易筮との間に関連があるとするなら、中央アジアや西アジアあたりに起源を持つ占術が東西に伝播したもので、中国から西方への一方的な伝播であったとは私には思われない。
最近、易筮と土占術(ジオマンシー)との類似性が指摘されているが、土占術はそれほど古くまで起源を遡り得る手がかりは無いようであるし、素朴な卜術はさして複雑な機構を持たないから、自然発生的な偶然の類似ということもあろう。
辺境アジアは一先ず置いて、中国の文献から蓍筮の起源を類推するなら、其の前身としてまず怪しむべきものは、「算籌(さんちゅう)」であると言って良い。
繋辞伝の記述を読み解く限り、大衍筮法は暦算に関係したものである気配が濃厚に漂っており、筮は御神籤というよりも計数具として機能していることが明らかだ。
中国では春秋時代から算籌と呼ばれる計算用具があり、考古資料としての算籌は古いものでは前漢時代の遺物が発掘されている(ひょっとすると現在は更に古いものが見出されているやも知れぬが庵主不案内)。
対馬では比較的最近まで亀卜の法が遺っていたことは、広く知られたところであるが、対馬の人々は、明治頃まで、算木状の計数具を50~60本束ねたものを常に腰に下げていたといい、長く亀卜の行われた対馬において此のようなものが携帯されていたというのは興味深い点であるし、対馬では今でも御盆に仏様の箸としてメドハギの茎を用いるということを最近知ったが、これも併せて庵主は非常な興味を覚える。
スポンサーサイト