擲銭源流考
- 2017/03/11
- 19:44
恐らく、簡易立卦具を用いた最も起源の古い易占法は擲銭によるそれで、これもはっきりとした起源はよく判っていないようだが、一般にその源流を前漢の京房および厳君平に求める二説が知られている。
擲銭の京房起源説は、朱子も之を説いているというのだが、今井宇三郎氏の「筮法小攷」によると、実際には、朱子は擲銭法が京房に起こると説くのではなく、「火珠林」の占法が京房の占法(納甲説)の遺法であると説いているに過ぎないという。
京房の易書は遥か昔に佚書となっていて、今日伝わる『京氏易伝』三巻は漢志及び隋志には見えず、宋史芸文志蓍亀類に『京房易伝算法一巻、易伝三巻』として初めて著録されるもの故、京房に仮託された偽書とされているが、後世の断易は多く此の書物に範を取り、断易は擲銭を立卦の基本とするらしいから、擲銭の京房起源説は此の辺りから来たものかもしれない。
擲銭の厳君平起源説は、張鼎思編「瑯邪代酔編」に厳君平が始めたとあり、出典未詳の唐詩に「井有君平擲卦銭」とあるらしいが、『漢書』の厳君平の伝には、売卜を業としたとはあるものの、擲銭については書かれておらず、厳君平に師事し、易に精通した楊雄(B.C.53~A.D.18)も師の擲銭については一言も述べて居ないのである。
ここで気になるのが、擲銭に言及する際によく引かれる『儀礼』士冠礼の賈公彦疏(唐初)の記述で、そこには「むかしは、蓍を用いて一爻一爻を得るごとに、地面に爻を描いていったが、今(唐代)では描く代わりに、銭を用いて爻をあらわす。老陽を表現するには、三枚の銭を全部裏むけて置く。これを重という。老陰をあらわすには三枚とも表を出す。これを交という。少陽をあらわすには、二枚表、一枚裏、これを単といい、少陰をあらわすには二枚裏、一枚表、これを坼という」とある。
一読明らかなように、ここに書かれたのは、立卦法としての擲銭ではなく、今日の算木と同じく記卦具としての卦銭であって、銭大昕によると、書卦に銭を以てするのは北斉・隋の時代からであるという。
『朱子語類』巻六十六には「このごろの人は蓍をきるかわりに三枚の銭を用いる」とあって、こちらは代筮法としての擲銭であり、『火珠林』一巻が北宋末に撰せられていることと考え合わせると、立卦法としての擲銭は漢代までは到底遡ることは出来ず、実際には唐宋間に其の起源があるものと思われる。
擲銭の京房起源説は、朱子も之を説いているというのだが、今井宇三郎氏の「筮法小攷」によると、実際には、朱子は擲銭法が京房に起こると説くのではなく、「火珠林」の占法が京房の占法(納甲説)の遺法であると説いているに過ぎないという。
京房の易書は遥か昔に佚書となっていて、今日伝わる『京氏易伝』三巻は漢志及び隋志には見えず、宋史芸文志蓍亀類に『京房易伝算法一巻、易伝三巻』として初めて著録されるもの故、京房に仮託された偽書とされているが、後世の断易は多く此の書物に範を取り、断易は擲銭を立卦の基本とするらしいから、擲銭の京房起源説は此の辺りから来たものかもしれない。
擲銭の厳君平起源説は、張鼎思編「瑯邪代酔編」に厳君平が始めたとあり、出典未詳の唐詩に「井有君平擲卦銭」とあるらしいが、『漢書』の厳君平の伝には、売卜を業としたとはあるものの、擲銭については書かれておらず、厳君平に師事し、易に精通した楊雄(B.C.53~A.D.18)も師の擲銭については一言も述べて居ないのである。
ここで気になるのが、擲銭に言及する際によく引かれる『儀礼』士冠礼の賈公彦疏(唐初)の記述で、そこには「むかしは、蓍を用いて一爻一爻を得るごとに、地面に爻を描いていったが、今(唐代)では描く代わりに、銭を用いて爻をあらわす。老陽を表現するには、三枚の銭を全部裏むけて置く。これを重という。老陰をあらわすには三枚とも表を出す。これを交という。少陽をあらわすには、二枚表、一枚裏、これを単といい、少陰をあらわすには二枚裏、一枚表、これを坼という」とある。
一読明らかなように、ここに書かれたのは、立卦法としての擲銭ではなく、今日の算木と同じく記卦具としての卦銭であって、銭大昕によると、書卦に銭を以てするのは北斉・隋の時代からであるという。
『朱子語類』巻六十六には「このごろの人は蓍をきるかわりに三枚の銭を用いる」とあって、こちらは代筮法としての擲銭であり、『火珠林』一巻が北宋末に撰せられていることと考え合わせると、立卦法としての擲銭は漢代までは到底遡ることは出来ず、実際には唐宋間に其の起源があるものと思われる。
スポンサーサイト