算木のはなし
- 2017/03/13
- 19:45
数ある筮具の中で、もっとも工芸的要素があって美的観点からの鑑賞に堪え得るものは、やはり算木(卦木)であろうかと思う。
今東光氏の「筮具抄」(『清閑』改巻三/1940)では、「筮具第一の要具は算木である」として、解説の首位に算木を持って来ており、筮竹は第二の要具となっているのが印象的である。
ところで、朱子の筮儀を読むと、櫝(筮筒に相当)と掛扐は用いられているものの、算木は出て来ず、記卦は漆の板に墨書することになっているようだ。
九鬼盛隆によると、師である根本通明の説では、漢以前は算木を用いたが、方術家が常用するところから学者は嫌って之を用いぬようになり、後には遂に儀礼に曰う「筮與席所卦者具饌於西塾」とある「此卦者」を、卦木を用いることなるを知らず、之を卦を畫くと誤解したもので、朱子派の学者は卦木は卜筮家の用具に過ぎずとして卦を木版等に畫いて居ると批判しているという。
しかし、『儀礼』士冠礼の記述を素直に読めば、やはり朱子の筮儀にある如く、板に卦を書き記した(或いは刻んだ)もののように思われ、例によって根本説は牽強付会の感が強い。
私は、今日用いられるところの記卦具としての算木は、江戸時代に使われ始めたメイドインジャパンのアイテムであろうかと思う。
まず、算木は白蛾流の書物(『古易一家言』)に既に見えており、馬場文耕(1718~1758)の『當世武野俗談』巻一「平沢左内之事」にも、「算木蓍木取散して」とあるところから、平澤随貞も算木を用いていたことが窺われる。
奈良場勝先生によると、白蛾が公然と筮竹を用いた時、対立する片岡如圭の一派からは誤った作法であると猛反発されたらしく、筮竹が正式な筮具として一般に許容されていくのは、1750年代以降であると考えてよいという。
筮竹の使用が一般化する以前、立卦法の主流は擲銭であったと思われるが、この擲銭が記卦法としての卦銭の転用であることは先に見た通りで、擲銭で得た卦を算木で表すというのは、原義からすれば二度手間であり、また、断易ではあまり算木を用いないと思うが、これは大成卦表出後にすぐに占考に入る周易占と異なって、断易はここから納甲の如き面倒な作業が入るので、算木の効用は周易ほどには発揮されない。
そう考えると、算木は白蛾や随貞以後、言い換えれば三変筮と共に登場した筮具であると言えるのではなかろうか。
そして、それは形状からして、計数具としての算木から転用されたものであることは明らかであると思う。
岡田准一主演の映画『天地明察』で、主人公が算木をカチャカチャ扱うシーンがあるが、まさに投げ算木を彷彿とさせる代物である。
或いは、吉川祐三の本に投げ算木による立卦法が説かれているというが、投げ算木が最初で、そこから記卦具に転用されたということもあり得るかもしれない。
計数具としての算木は、恐らくは算籌を起源としており、筮竹もまた算籌に端を発するものであるとすると、算木と筮竹とは元々同じ祖先を持つ者同士で、それが江戸時代に異なる姿となって周易占の筮具に取り込まれて再会したものであるかもしれない。
ところで、今日の我々は三変筮に用いられるところの陰陽爻のみを表すシンプルな算木と、両端に爻卦の刻まれた中筮用の算木の二種しか目にしないが、算木のバリエーションは意外に多い。
たとえば、上掲の写真は以前ヤフオクに出品されていたもので、四象算木と呼ばれるものである。
横一文字が老陽、バツ印が老陰で、大衍筮法に用いるものであるが、大衍筮は江戸時代にもあまり行われていなかったものと思われるので、或いは儒者の類が繋辞伝を講義解説する際などに用いたものであるかもしれない。
これは、今東光氏の「筮具抄」に載せる算木二種で、おそらく今氏の所蔵品と思われる。
右側は今日でもよく見かける中筮用の算木であるが、左は中央が四象算木になっている珍しいものだ(しかしながら、爻卦の位置がバラバラで仕事が雑い!)。
今東光氏の「筮具抄」(『清閑』改巻三/1940)では、「筮具第一の要具は算木である」として、解説の首位に算木を持って来ており、筮竹は第二の要具となっているのが印象的である。
ところで、朱子の筮儀を読むと、櫝(筮筒に相当)と掛扐は用いられているものの、算木は出て来ず、記卦は漆の板に墨書することになっているようだ。
九鬼盛隆によると、師である根本通明の説では、漢以前は算木を用いたが、方術家が常用するところから学者は嫌って之を用いぬようになり、後には遂に儀礼に曰う「筮與席所卦者具饌於西塾」とある「此卦者」を、卦木を用いることなるを知らず、之を卦を畫くと誤解したもので、朱子派の学者は卦木は卜筮家の用具に過ぎずとして卦を木版等に畫いて居ると批判しているという。
しかし、『儀礼』士冠礼の記述を素直に読めば、やはり朱子の筮儀にある如く、板に卦を書き記した(或いは刻んだ)もののように思われ、例によって根本説は牽強付会の感が強い。
私は、今日用いられるところの記卦具としての算木は、江戸時代に使われ始めたメイドインジャパンのアイテムであろうかと思う。
まず、算木は白蛾流の書物(『古易一家言』)に既に見えており、馬場文耕(1718~1758)の『當世武野俗談』巻一「平沢左内之事」にも、「算木蓍木取散して」とあるところから、平澤随貞も算木を用いていたことが窺われる。
奈良場勝先生によると、白蛾が公然と筮竹を用いた時、対立する片岡如圭の一派からは誤った作法であると猛反発されたらしく、筮竹が正式な筮具として一般に許容されていくのは、1750年代以降であると考えてよいという。
筮竹の使用が一般化する以前、立卦法の主流は擲銭であったと思われるが、この擲銭が記卦法としての卦銭の転用であることは先に見た通りで、擲銭で得た卦を算木で表すというのは、原義からすれば二度手間であり、また、断易ではあまり算木を用いないと思うが、これは大成卦表出後にすぐに占考に入る周易占と異なって、断易はここから納甲の如き面倒な作業が入るので、算木の効用は周易ほどには発揮されない。
そう考えると、算木は白蛾や随貞以後、言い換えれば三変筮と共に登場した筮具であると言えるのではなかろうか。
そして、それは形状からして、計数具としての算木から転用されたものであることは明らかであると思う。
岡田准一主演の映画『天地明察』で、主人公が算木をカチャカチャ扱うシーンがあるが、まさに投げ算木を彷彿とさせる代物である。
或いは、吉川祐三の本に投げ算木による立卦法が説かれているというが、投げ算木が最初で、そこから記卦具に転用されたということもあり得るかもしれない。
計数具としての算木は、恐らくは算籌を起源としており、筮竹もまた算籌に端を発するものであるとすると、算木と筮竹とは元々同じ祖先を持つ者同士で、それが江戸時代に異なる姿となって周易占の筮具に取り込まれて再会したものであるかもしれない。
ところで、今日の我々は三変筮に用いられるところの陰陽爻のみを表すシンプルな算木と、両端に爻卦の刻まれた中筮用の算木の二種しか目にしないが、算木のバリエーションは意外に多い。
たとえば、上掲の写真は以前ヤフオクに出品されていたもので、四象算木と呼ばれるものである。
横一文字が老陽、バツ印が老陰で、大衍筮法に用いるものであるが、大衍筮は江戸時代にもあまり行われていなかったものと思われるので、或いは儒者の類が繋辞伝を講義解説する際などに用いたものであるかもしれない。
これは、今東光氏の「筮具抄」に載せる算木二種で、おそらく今氏の所蔵品と思われる。
右側は今日でもよく見かける中筮用の算木であるが、左は中央が四象算木になっている珍しいものだ(しかしながら、爻卦の位置がバラバラで仕事が雑い!)。
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