平成の易
- 2017/04/22
- 12:58
皇室典範特例法によって今上が退位されることで、平成という一つの時代に間も無く幕が下ろされようとしている。
昭和大帝の崩御がつい昨日のことのように思い出されるが、それから三十年とは光陰矢の如しの格言を今更ながらに肌身に感じずには居られない。
私がこの平成という時代、近代以降もっとも我が国で平和が続いた時代を振り返って思うことは、殊に易占という私の狭い専門の範囲に限って言えば、実に発展性の乏しい30年であったということである。
明治には高島嘉右衛門が、大正には大島中堂が、そして昭和には加藤大岳が、という風に、其々の時代には文字通り一時代を作った大家が必ず居て、斯界における牽引の役を果たした。
しかし、我々がその全時代を生きた平成の御代に、それら先人諸家に比される者の存在を私は寡聞にして聞かない。
これは実に嘆かわしいことではないか。
つい最近まで存命であった大家として、私などには横井伯典先生の名が思い浮かぶが、横井先生はやはり昭和の易に分類すべき人で、平成の易と呼ぶには一寸無理があろう。
聊か不遜な言辞を弄することを許されるなら、私にも幾らか易占易学における新知見めいたものがないでもないし、幾らか他に誇り得る新しい占法上の工夫とてあるとは言え、それらはやはり“昭和の易”の延長線上に、幾ばくかの付け足をした程度のことで、“平成の易”を標榜出来る程のものではない。
「占考面においてはこれ以上の発展は望み得ないと思います。発展性はもう残されておりません。現代において尽くされた感じです」とは、昭和38年の汎日本易学協会夏季講座における加藤大岳氏の言であるが、もし、氏の言が何等の反駁をも寄せ付けぬ事実であるならば、“平成の易”と呼ぶべきものが現れぬこともまた故無しとせぬものの、さすれば、その昭和易の成果を承けて研鑽に励む我々が余りに不甲斐無いのは何故であろう。
見渡しても、昨今の易占家、盆暗を絵に描いたような手合いと加藤大岳を闇雲に有難がる連中(後者は前者を兼ねるのが普通であるから結局は一種類か)とで大勢が占められているようにしか映らぬのは、独り庵主の曇眼のみではあるまい。
結局のところ、“平成の易”が現れぬのは、我々の研鑽が足らぬからであろう。
これは、漢方の分野でも同様で、“昭和の漢方”はあっても“平成の漢方”というものはないようだ。
次なる元号が如何なるものであるのかは知る由もないが、学力の低下叫ばれて久しく、それに歯止めのかからぬ昨今、“○○の易”も“○○の漢方”もまた、出現する可能性はありそうにない。
昭和大帝の崩御がつい昨日のことのように思い出されるが、それから三十年とは光陰矢の如しの格言を今更ながらに肌身に感じずには居られない。
私がこの平成という時代、近代以降もっとも我が国で平和が続いた時代を振り返って思うことは、殊に易占という私の狭い専門の範囲に限って言えば、実に発展性の乏しい30年であったということである。
明治には高島嘉右衛門が、大正には大島中堂が、そして昭和には加藤大岳が、という風に、其々の時代には文字通り一時代を作った大家が必ず居て、斯界における牽引の役を果たした。
しかし、我々がその全時代を生きた平成の御代に、それら先人諸家に比される者の存在を私は寡聞にして聞かない。
これは実に嘆かわしいことではないか。
つい最近まで存命であった大家として、私などには横井伯典先生の名が思い浮かぶが、横井先生はやはり昭和の易に分類すべき人で、平成の易と呼ぶには一寸無理があろう。
聊か不遜な言辞を弄することを許されるなら、私にも幾らか易占易学における新知見めいたものがないでもないし、幾らか他に誇り得る新しい占法上の工夫とてあるとは言え、それらはやはり“昭和の易”の延長線上に、幾ばくかの付け足をした程度のことで、“平成の易”を標榜出来る程のものではない。
「占考面においてはこれ以上の発展は望み得ないと思います。発展性はもう残されておりません。現代において尽くされた感じです」とは、昭和38年の汎日本易学協会夏季講座における加藤大岳氏の言であるが、もし、氏の言が何等の反駁をも寄せ付けぬ事実であるならば、“平成の易”と呼ぶべきものが現れぬこともまた故無しとせぬものの、さすれば、その昭和易の成果を承けて研鑽に励む我々が余りに不甲斐無いのは何故であろう。
見渡しても、昨今の易占家、盆暗を絵に描いたような手合いと加藤大岳を闇雲に有難がる連中(後者は前者を兼ねるのが普通であるから結局は一種類か)とで大勢が占められているようにしか映らぬのは、独り庵主の曇眼のみではあるまい。
結局のところ、“平成の易”が現れぬのは、我々の研鑽が足らぬからであろう。
これは、漢方の分野でも同様で、“昭和の漢方”はあっても“平成の漢方”というものはないようだ。
次なる元号が如何なるものであるのかは知る由もないが、学力の低下叫ばれて久しく、それに歯止めのかからぬ昨今、“○○の易”も“○○の漢方”もまた、出現する可能性はありそうにない。
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