得卦論々争について
- 2017/04/23
- 18:42
仮に、加藤大岳氏の自負するように、もはや発展性が残されぬ程に追及されたものが“昭和の易”であったならば、その時代的絶頂は昭和20年代後半から三十年代前半にかけてではなかったかと、私には思われる。
そして、その絶頂は、所謂“得卦論々争”を中心として形成せられたものではなかったか。
私がかく申し述べる根拠の一つは、『易学研究』誌に掲載された記事の質である。
私自身は残念ながら此の時代を直接に呼吸して居らぬ為、あくまでも傍観者の立場で、過去の巻号を通読した印象からもの申すのみであるが、加藤大岳氏の没後は言うに及ばず、その活動の後期にさえ、過去記事の再録が目立ち、氏の没後は過去記事の使いまわしは目に余るものがあった。
これは現在の『漢方の臨床』誌にも当てはまり、良質の記事が集まらなくなっていることを如実に物語るものである。
『易学研究』に話を戻せば、勢いのある記事は殆ど得卦論々争が行われた時期に集中している印象があるが、論争というものが行われるということ自体、斯界にエネルギーが充満していた証左であったと言うことが出来よう。
得卦論々争は、岳門初期の高弟であった荒井省一朗氏(転職の失敗が原因で縊死されたという)が昭和26年に著した「筮法私見」という一文に端を発したもので、氏はここで非卦誤卦という表現で不応卦について論じたのだが、これに噛みついたのが、不応卦を否定し、易神によって与えられる卦は絶対であるとする紀藤元之介氏である。
これを契機として、当時の諸家多数が得卦論についての所見を発表し、誌上はまさに百家鳴動の観を呈するに至った。
卦の応不応の問題については、早くに松井羅州が之を論じ、大正期には大島中堂も取り組んでいるが、昭和20年代の後期ほど多く俎上に載せられたことは無かった筈である。
得卦における応不応の問題というのは、畢竟、“易は何故当たるのか”という卜術の根本的問題を扱ったものであり、また、そうであるが故に結局は結論など出よう筈のない主題でもあるのだが、その卦を教示する主体については大きく分けて以下の三種の説が提出されたように思う。
①自己の持つもの乃至潜在的なものによるとする考え方
②神仏といった自己の外側の存在により与えられるとする考え方
③鏡に映る如く、自然の理法であるとする考え方
①と③は一寸区別が難しいところがあるように思うが、兎も角、別個に論じられているようなので、三種としてここでは提示しておく。
そして、その絶頂は、所謂“得卦論々争”を中心として形成せられたものではなかったか。
私がかく申し述べる根拠の一つは、『易学研究』誌に掲載された記事の質である。
私自身は残念ながら此の時代を直接に呼吸して居らぬ為、あくまでも傍観者の立場で、過去の巻号を通読した印象からもの申すのみであるが、加藤大岳氏の没後は言うに及ばず、その活動の後期にさえ、過去記事の再録が目立ち、氏の没後は過去記事の使いまわしは目に余るものがあった。
これは現在の『漢方の臨床』誌にも当てはまり、良質の記事が集まらなくなっていることを如実に物語るものである。
『易学研究』に話を戻せば、勢いのある記事は殆ど得卦論々争が行われた時期に集中している印象があるが、論争というものが行われるということ自体、斯界にエネルギーが充満していた証左であったと言うことが出来よう。
得卦論々争は、岳門初期の高弟であった荒井省一朗氏(転職の失敗が原因で縊死されたという)が昭和26年に著した「筮法私見」という一文に端を発したもので、氏はここで非卦誤卦という表現で不応卦について論じたのだが、これに噛みついたのが、不応卦を否定し、易神によって与えられる卦は絶対であるとする紀藤元之介氏である。
これを契機として、当時の諸家多数が得卦論についての所見を発表し、誌上はまさに百家鳴動の観を呈するに至った。
卦の応不応の問題については、早くに松井羅州が之を論じ、大正期には大島中堂も取り組んでいるが、昭和20年代の後期ほど多く俎上に載せられたことは無かった筈である。
得卦における応不応の問題というのは、畢竟、“易は何故当たるのか”という卜術の根本的問題を扱ったものであり、また、そうであるが故に結局は結論など出よう筈のない主題でもあるのだが、その卦を教示する主体については大きく分けて以下の三種の説が提出されたように思う。
①自己の持つもの乃至潜在的なものによるとする考え方
②神仏といった自己の外側の存在により与えられるとする考え方
③鏡に映る如く、自然の理法であるとする考え方
①と③は一寸区別が難しいところがあるように思うが、兎も角、別個に論じられているようなので、三種としてここでは提示しておく。
スポンサーサイト