誤占の研究
- 2017/04/24
- 19:32
“易は何故当たるのか”という主題は中々に深遠ではあるが、正直なところ、私にはあまり関心がない。
しかし、“易が当たらないことがあるのは何故か”という主題には大いに興味を引かれるところがある。
我々が筮を執るのは、何か易を通して知りたいことがあるからだが、それは当然「易は当たるものだ」という前提に立って行う行為であろう。
従って、易が当たるのは占者にとっては当たり前のことと言って良い。
しかし、それにも拘わらず、易は当たらないことが屡々ある。
これは大変困ったことだ。
我が身の未熟故に誤占を見るのは致し方ないことであるが、練達の士でさえ、中々百占百中とは行かないことは、等身大の実占記録を豊富に載せる『易学研究』『実占研究』を紐解けば容易に理解出来る。
では、未熟とは言えない占者にも又不遜を戒めるかの如く、誤占の経験が日夜積み重ねられるのは如何なる所以のことであろうか。
“易は何故当たるのか”と“易が当たらないことがあるのは何故か”は畢竟同じことを問うたものであり、同じコインの表裏のようなものだと言えるかもしれない。
しかし、前者と後者とでは、行き着くところに大いなる相違があって、後者は「では如何にすれば誤占を無くすことが出来るのか」或いは「誤占を減少せしめる手段は何か」という主題を新たに生ぜしめるのである。
両者の相違は小さいようでいて実に大きなものがあると思う。
“易は何故当たるのか”は、私の場合、初学の頃に一瞬脳裏を掠めたに過ぎぬが、“易が当たらないことがあるのは何故か”に関しては、今もって日々思いを巡らせ続けている主題なのであり、誤占の研究こそ庵主終生の研究課題と言い得るものである。
下手の考え休むに似たりとはよく言ったものだと思うが、沈思黙考も十年を過ぐれば、おぼろげながら自分なりの答えのようなものが形を成してくるものらしい。
その帰結は至って月並みで、聊か竜頭蛇尾の感を免れぬとは言え、ここで蒼流庵主人の得卦論とでもいうべきものを披瀝してみたいと思う。
同学諸子なかんずく後学を幾らかでも裨益するところあらば本懐である。
しかし、“易が当たらないことがあるのは何故か”という主題には大いに興味を引かれるところがある。
我々が筮を執るのは、何か易を通して知りたいことがあるからだが、それは当然「易は当たるものだ」という前提に立って行う行為であろう。
従って、易が当たるのは占者にとっては当たり前のことと言って良い。
しかし、それにも拘わらず、易は当たらないことが屡々ある。
これは大変困ったことだ。
我が身の未熟故に誤占を見るのは致し方ないことであるが、練達の士でさえ、中々百占百中とは行かないことは、等身大の実占記録を豊富に載せる『易学研究』『実占研究』を紐解けば容易に理解出来る。
では、未熟とは言えない占者にも又不遜を戒めるかの如く、誤占の経験が日夜積み重ねられるのは如何なる所以のことであろうか。
“易は何故当たるのか”と“易が当たらないことがあるのは何故か”は畢竟同じことを問うたものであり、同じコインの表裏のようなものだと言えるかもしれない。
しかし、前者と後者とでは、行き着くところに大いなる相違があって、後者は「では如何にすれば誤占を無くすことが出来るのか」或いは「誤占を減少せしめる手段は何か」という主題を新たに生ぜしめるのである。
両者の相違は小さいようでいて実に大きなものがあると思う。
“易は何故当たるのか”は、私の場合、初学の頃に一瞬脳裏を掠めたに過ぎぬが、“易が当たらないことがあるのは何故か”に関しては、今もって日々思いを巡らせ続けている主題なのであり、誤占の研究こそ庵主終生の研究課題と言い得るものである。
下手の考え休むに似たりとはよく言ったものだと思うが、沈思黙考も十年を過ぐれば、おぼろげながら自分なりの答えのようなものが形を成してくるものらしい。
その帰結は至って月並みで、聊か竜頭蛇尾の感を免れぬとは言え、ここで蒼流庵主人の得卦論とでもいうべきものを披瀝してみたいと思う。
同学諸子なかんずく後学を幾らかでも裨益するところあらば本懐である。
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