真勢易における不応卦
- 2017/04/26
- 21:14
不応卦について論じた第一の占法家は、恐らく松井羅州(1751~1822)である。
表題は一応「真勢易における不応卦」としたが、薮田先生の説くところ、真勢の易というものは、実際には松井羅州によって相当に潤色されたものらしく、事実上中州の継承者であったと言って良い谷川龍山(1774~1831)でさえ、羅州のリライトに過ぎないのだという。
つまり、薮田説からすると我々が認識している真勢易なるものは羅州というフィルターを通して垣間見たものに過ぎないということになるが、さりとて真勢の名を冠する以上は羅州易と呼ぶ訳にも行かないので、ここは一応真勢易における不応卦ということにしておく。
まず、真勢易においては、不応卦の存在については之をはっきりと認める立場を取る。
『復古易精義入神伝』には、
既ニ筮シテ卦ヲ得タルノ上ニ於テハ第一ニ其卦名ノ大義ト卦象ノ大義トヲ取ヲ以テ彼筮前審事ト照シ合セ速ニ其卦ノ応ト不応トヲ決スベシ。
卦ノ応不応ヲ決スル事是至極ノ大事タリ。
とあり、卦を立てたら、筮前の審事(これはまた後に述べる予定であるが、真勢易では筮前の審事を非常に重視する。反対に之を重視しない流儀の代表が高松貝陵の日東易である)と照合して其の卦が応卦であるか不応卦であるのかを先ず見定めねばならぬという。
ここには、紀藤元之介氏の如き得卦への絶対的な信頼は微塵も感じられない。
占考がうまく行かない、或いは卦が読みにくい場合に、はじめて得卦を検するというならいざ知らず、最初に不応卦かどうか疑ってかかれと言っているに等しいからである。
更に口訣では、
若其卦不応ニ決セバ更ニ時刻ヲ撰ビ身心ヲ清浄ニシテ別ニ卦ヲ求ム可シ。
とし、不応卦であった場合は、日を改めて筮せよ、といい、条件付きながら再筮(再筮の定義は中々に難しい。これも得卦論においては非常に重要なテーマであるので別の機会に詳述したい)を認めていることが窺われる。
ただ、得卦の応不応を見定めるということは、中々に難しいことであって、誤占が単に読卦の未熟に拠るような場合も甚だ多いし、そもそも応卦不応卦など其の存在についてすら賛否両論である訳だから、それを弁別するというのは困難を極める。
得卦の内卦と二爻の爻卦が同じか、外卦と五爻の爻卦が同じであれば、これを神明に酬錯していると見るなどという口訣もあるのだが、こんな機械的な見方で卦の応不応を判断出来るなどと本当に思っていた訳ではなかろう。
また、
暉星按ニ卦ノ応不応ノ事是至極ノ大事也。
然ニ初心ノ時ヨリ其卦応セシヤ否ヤト疑念ヲ抱テ妄リニ再三スル時ハ前後淆乱シテ黷則不告ノ聖訓ヲ犯スニ至ル故ニ吾門ニテハ初心ヨリ毎筮必其応卦ヲ得ベシト決定シテ筮セシムル事也。
と言い、これは中州の言ということになっている「筮シテ卦ヲ得タルノ上ニ於テハ云々」に対する註という形を採っているのだが、甚だ月並みで竜頭蛇尾の言としなくてはならないだろう。
ところで、庵主の手元にある『復古易精義入神伝』は、羅州の原書(『精義入神』は刊本ではなく筆写本として流布したものらしい)を、明治の世に阿部見龍なる人が蕪雑を芟り重複を省いて上下二巻本として世に出したものであるが、冒頭の例言では、中州の文に羅州の言が混淆しているを疑い、羅州の書き入れたと思われるものは暉星按の語を附して本文から別に独立させたとしており、羅州の潤色をこの阿部某もまた怪しむところがあったようで、私には興味深く思われる。
なお、正面からこれを論じている訳ではないけれども、高島嘉右衛門も「占筮たる、感応の如何に依りて中不中あり。」と言っているところを見ると、不応卦の存在を肯定する立場を取っていたようだ。
表題は一応「真勢易における不応卦」としたが、薮田先生の説くところ、真勢の易というものは、実際には松井羅州によって相当に潤色されたものらしく、事実上中州の継承者であったと言って良い谷川龍山(1774~1831)でさえ、羅州のリライトに過ぎないのだという。
つまり、薮田説からすると我々が認識している真勢易なるものは羅州というフィルターを通して垣間見たものに過ぎないということになるが、さりとて真勢の名を冠する以上は羅州易と呼ぶ訳にも行かないので、ここは一応真勢易における不応卦ということにしておく。
まず、真勢易においては、不応卦の存在については之をはっきりと認める立場を取る。
『復古易精義入神伝』には、
既ニ筮シテ卦ヲ得タルノ上ニ於テハ第一ニ其卦名ノ大義ト卦象ノ大義トヲ取ヲ以テ彼筮前審事ト照シ合セ速ニ其卦ノ応ト不応トヲ決スベシ。
卦ノ応不応ヲ決スル事是至極ノ大事タリ。
とあり、卦を立てたら、筮前の審事(これはまた後に述べる予定であるが、真勢易では筮前の審事を非常に重視する。反対に之を重視しない流儀の代表が高松貝陵の日東易である)と照合して其の卦が応卦であるか不応卦であるのかを先ず見定めねばならぬという。
ここには、紀藤元之介氏の如き得卦への絶対的な信頼は微塵も感じられない。
占考がうまく行かない、或いは卦が読みにくい場合に、はじめて得卦を検するというならいざ知らず、最初に不応卦かどうか疑ってかかれと言っているに等しいからである。
更に口訣では、
若其卦不応ニ決セバ更ニ時刻ヲ撰ビ身心ヲ清浄ニシテ別ニ卦ヲ求ム可シ。
とし、不応卦であった場合は、日を改めて筮せよ、といい、条件付きながら再筮(再筮の定義は中々に難しい。これも得卦論においては非常に重要なテーマであるので別の機会に詳述したい)を認めていることが窺われる。
ただ、得卦の応不応を見定めるということは、中々に難しいことであって、誤占が単に読卦の未熟に拠るような場合も甚だ多いし、そもそも応卦不応卦など其の存在についてすら賛否両論である訳だから、それを弁別するというのは困難を極める。
得卦の内卦と二爻の爻卦が同じか、外卦と五爻の爻卦が同じであれば、これを神明に酬錯していると見るなどという口訣もあるのだが、こんな機械的な見方で卦の応不応を判断出来るなどと本当に思っていた訳ではなかろう。
また、
暉星按ニ卦ノ応不応ノ事是至極ノ大事也。
然ニ初心ノ時ヨリ其卦応セシヤ否ヤト疑念ヲ抱テ妄リニ再三スル時ハ前後淆乱シテ黷則不告ノ聖訓ヲ犯スニ至ル故ニ吾門ニテハ初心ヨリ毎筮必其応卦ヲ得ベシト決定シテ筮セシムル事也。
と言い、これは中州の言ということになっている「筮シテ卦ヲ得タルノ上ニ於テハ云々」に対する註という形を採っているのだが、甚だ月並みで竜頭蛇尾の言としなくてはならないだろう。
ところで、庵主の手元にある『復古易精義入神伝』は、羅州の原書(『精義入神』は刊本ではなく筆写本として流布したものらしい)を、明治の世に阿部見龍なる人が蕪雑を芟り重複を省いて上下二巻本として世に出したものであるが、冒頭の例言では、中州の文に羅州の言が混淆しているを疑い、羅州の書き入れたと思われるものは暉星按の語を附して本文から別に独立させたとしており、羅州の潤色をこの阿部某もまた怪しむところがあったようで、私には興味深く思われる。
なお、正面からこれを論じている訳ではないけれども、高島嘉右衛門も「占筮たる、感応の如何に依りて中不中あり。」と言っているところを見ると、不応卦の存在を肯定する立場を取っていたようだ。
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