易占と瞑想
- 2017/04/27
- 20:38
得卦論々争で提示された、卦を教示する主体についての三種の説、すなわち、
①自己の持つもの乃至潜在的なものによるとする考え方
②神仏といった自己の外側の存在により与えられるとする考え方
③鏡に映る如く、自然の理法であるとする考え方
の内、私は①の説を採る者であるが、②③の説を支持する場合でも、不応卦の存在を肯定する以上、次なる問題は如何にすれば不応卦の表出を減少せしめ、立筮における応卦の表出率を上げ得るかという点になろう。
ここで、時折論じられるのが、瞑想法などの精神修養の技術に習熟することで、応卦を得やすくしようという試みである。
①~③のどの説を支持するにせよ、不応卦が存在する以上、卦を立てる側の何らかのミスによって不応卦が表出されることになるので、そのミスを減らすには、筮に対する或る種の集中力の如きものを向上させる必要があるというのは、誰しもが真っ先に思いつくことであろうかと思う。
しかし、私自身は実地に色々試みて、また、周囲の易占家を観察した結果、瞑想法その他の精神修養によって応卦の表出率を上げるのは、難しいように感じている。
まず、瞑想に熟達しているような人が行う易占の的中率が必ずしも有意に高いとは思われないことと、自分自身、瞑想もここ数年でそれなりに深まって来たという実感はあるが、それが得卦に結びついているようには思われないからだ。
ただし、滝行をした直後は、何やら読みやすい卦ばかり示されるという気はしているが、これについては他者も同様であるのか調べてみた訳ではないので、目下結論めいたことを示すことは差し控えることにする。
もっとも、易占の向上に瞑想法が役立つかどうかと言われれば、これは大いに役立つと思う。
しかし、それは、得卦ではなく読卦の側に立ってのことである。
易には様々な観卦法があり、また一つの卦を取って見ても、卦象・卦辞・爻辞・彖伝・象伝・序卦伝・雑卦伝という風に様々な側面からの説明がなされているが、それらは甚だ牽強付会のものであったり(序卦伝などその傾向が著しい)、時に相反するものであることも少なくなく(殊に卦辞の取り扱いは厄介で、私の場合、占考では基本的に卦辞を殆ど引かない)、伏卦や互卦なども含めて考えれば、無限とまでは行かずとも、相当の情報量を引き出し得る。
要は、読卦占考というのは、占的に照らし合わせて、それら卦の持つ様々な情報を一つずつ排除して行く作業に他ならないが、この作業は必ずしも理詰めばかりがものを言う訳では無く、直感に負うところがかなり大きい。
実際には、理詰めで一つずつ情報を取捨して行くというよりも、直感によって最も其の時の占の肝というべき部分を感得するというのが普通ではないかと思う。
むしろ、どの情報を取るべきか、彼是迷い出すと、途端に誤占の率が上昇する。
そんな時、精神修養を積み重ねている人ほど、メンタルにおけるノイズが少ないので、物事を正しく判断選択することが出来るということは疑い得ない。
この点で、易の如き卜術は勿論、他のあらゆる占術においても、瞑想に熟達することは大いに役立つ筈である。
そういえば、加藤大岳先生も、卦を見た時の第一印象が最も大切で、占考で迷った時は第一印象に回帰するのだ、というようなことを何処かで書かれていたように思うが、この第一印象に戻るというのも、優柔不断な人間には中々難しいものがある。
やはり、直感を高めるにしろ、不動心を養うにしろ、瞑想法で心を統御する術を学ぶのが一番(というかそれ以外に有効な手段を思い浮かべることが出来ない)ではなかろうか。
①自己の持つもの乃至潜在的なものによるとする考え方
②神仏といった自己の外側の存在により与えられるとする考え方
③鏡に映る如く、自然の理法であるとする考え方
の内、私は①の説を採る者であるが、②③の説を支持する場合でも、不応卦の存在を肯定する以上、次なる問題は如何にすれば不応卦の表出を減少せしめ、立筮における応卦の表出率を上げ得るかという点になろう。
ここで、時折論じられるのが、瞑想法などの精神修養の技術に習熟することで、応卦を得やすくしようという試みである。
①~③のどの説を支持するにせよ、不応卦が存在する以上、卦を立てる側の何らかのミスによって不応卦が表出されることになるので、そのミスを減らすには、筮に対する或る種の集中力の如きものを向上させる必要があるというのは、誰しもが真っ先に思いつくことであろうかと思う。
しかし、私自身は実地に色々試みて、また、周囲の易占家を観察した結果、瞑想法その他の精神修養によって応卦の表出率を上げるのは、難しいように感じている。
まず、瞑想に熟達しているような人が行う易占の的中率が必ずしも有意に高いとは思われないことと、自分自身、瞑想もここ数年でそれなりに深まって来たという実感はあるが、それが得卦に結びついているようには思われないからだ。
ただし、滝行をした直後は、何やら読みやすい卦ばかり示されるという気はしているが、これについては他者も同様であるのか調べてみた訳ではないので、目下結論めいたことを示すことは差し控えることにする。
もっとも、易占の向上に瞑想法が役立つかどうかと言われれば、これは大いに役立つと思う。
しかし、それは、得卦ではなく読卦の側に立ってのことである。
易には様々な観卦法があり、また一つの卦を取って見ても、卦象・卦辞・爻辞・彖伝・象伝・序卦伝・雑卦伝という風に様々な側面からの説明がなされているが、それらは甚だ牽強付会のものであったり(序卦伝などその傾向が著しい)、時に相反するものであることも少なくなく(殊に卦辞の取り扱いは厄介で、私の場合、占考では基本的に卦辞を殆ど引かない)、伏卦や互卦なども含めて考えれば、無限とまでは行かずとも、相当の情報量を引き出し得る。
要は、読卦占考というのは、占的に照らし合わせて、それら卦の持つ様々な情報を一つずつ排除して行く作業に他ならないが、この作業は必ずしも理詰めばかりがものを言う訳では無く、直感に負うところがかなり大きい。
実際には、理詰めで一つずつ情報を取捨して行くというよりも、直感によって最も其の時の占の肝というべき部分を感得するというのが普通ではないかと思う。
むしろ、どの情報を取るべきか、彼是迷い出すと、途端に誤占の率が上昇する。
そんな時、精神修養を積み重ねている人ほど、メンタルにおけるノイズが少ないので、物事を正しく判断選択することが出来るということは疑い得ない。
この点で、易の如き卜術は勿論、他のあらゆる占術においても、瞑想に熟達することは大いに役立つ筈である。
そういえば、加藤大岳先生も、卦を見た時の第一印象が最も大切で、占考で迷った時は第一印象に回帰するのだ、というようなことを何処かで書かれていたように思うが、この第一印象に戻るというのも、優柔不断な人間には中々難しいものがある。
やはり、直感を高めるにしろ、不動心を養うにしろ、瞑想法で心を統御する術を学ぶのが一番(というかそれ以外に有効な手段を思い浮かべることが出来ない)ではなかろうか。
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