占機と必然性
- 2017/04/28
- 21:17
揲筮において最も大切なことは、仰々しい斎戒沐浴の類などではなく、如何に“占機”を捉えるかにあると私は思う。
梅花心易などは此の“占機”を殊に重視する占法であるかと思うが、“占機”を捉えることの重要性は、遍く卜占全般に及ぶと言えるのではなかろうか。
我が広瀬宏道先生は、かつて『易学研究』に寄せられた「半解冗語」の中で、
私、占機と申しますか、それが一番大事だ、と思うんです。占機さえ熟しておるなら、初心であろうと、適切な卦がしめされる、と思いますね。
そこが易のおもしろいといいますか、こわいと申しますか、肝心なところでしょうね。
したがって、その占機をうるためには、めったやたらに占わないことです。サムライといっても、一生白刃をかざさなかった人もいよう、といわれますが、そうむやみと刀はぬくものではありません。
と書かれているが、流石の慧眼と言えよう。
“占機”といっても色々な理解の仕方があるかと思うが、私は一先ず「卦を起こす必然性」とでも定義してみたい。
必然性なしに卦を起こすと不応卦を得やすいということは、不応卦の存在を肯定する占者であれば、誰しも首肯して頂けるかと思うが、私は立卦に必然性がある=占機を捉えた時には、誰しもが或る種の意識状態になって、阿頼耶識だか何だか分からぬが、そういったところに易を介してアクセスすることが出来るのではないかという気がしている。
また、広瀬先生は、先ほどの一文に、
『荀子』の大略篇に「よく易をおさむる者は占わず」とございますが、頂門の一針でしょうよ。
もっともこれは一々卦をたてないで、いまの状態はこの卦・この爻にあたる、と自得するといえないでもありませんが、前後の、詩をよくする者は説明しない、礼をよくする者は介添え役にならない、という文脈からすると易をかるがるしくしない、の意としてよいのでしょう。
と続けておられるが、これは実にサラッと書かれているので、どれだけの人が注意を止めたか分からぬものの、大変重要な指摘であると思う。
通常、『荀子』大略篇の此の一文は、義理易的な側面から解釈されることが多いが、先生は、前後の文脈から堅苦しい儒家的な解釈でなく、占機を捉えることの重要性を言ったものだと解しておられるように思われる。
大略篇が最初から『荀子』に含まれていたのかどうかは一先ず置くとして、同様に一応先秦の文献とされているものにも、似たようなニュアンスの文が幾つか登場する。
『左伝』の昭公十二年の条に、「夫れ易は以て険を占ふべからず」とあり、同じく『左伝』桓公十一年には「卜は以て疑を決す。疑はずんば何ぞ卜せん」とあって、何れも甚だ儒教的な解釈がなされているようであるが、これは何れも占機を捉えることの重要性を言ったものであると私は思う。
始皇の焚書の際、儒書は盡く焼き捨てられたことは有名であるが、易書や農書、医書の類は実用書ということで、焚書を免れたとされている。
しかし、既に諸家の指摘する通り、もし、孔子が易に十翼を附したとする伝説のように、儒教と易とが密接な関わりを持っていたとすれば、いくら実用書とはいえ焚書を免れたかどうかは疑わしい点があり、上記の文が後人の竄入でなかったとしたら、やはりそれは儒家的な解釈を附すべき文ではなく、実占上の一つの秘訣めいたものが吐露された一文ではなかったかと私は思うのである。
立卦の必然性と誤占との関係については、『易学研究』の記載にも、幾つか示唆に富む箇所を見出すことが出来るようだ。
たとえば、加藤大岳先生が、「易占法講座(111)」において、天候占を論じた際、
自他の占例を検しても、或る特定の目的があっての天候占に的占が多いのに比べて、天候だけを主目的としたものに余り好占がないのは、このためであるかも知れず、こんなところにも、易占手法の一つの秘密があるのかも知れません。
と言っておられるのは極めて興味深いし、岳門中、“爻使いの名手”として知られた林成光先生は、「実占問答」において、「林さんは昔から誤占がなかったのですか」という問いに対し、
そんな事はありませんよ。
誤占は数知れずでした。
角力だの野球だの勝敗の占は今でも誤占しますよ。
ですけれど幸と客に対しては無難でした。
やはり真剣味が違うのでしょうね。
と答えている。
「真剣味が違うのでしょうね。」と、簡単に片づけられているのは聊か残念であるが、占機というのを考える時、大きな示唆を与えてくれる一文ではないかと思う。
私のような者でも、具体的な求占者の依頼に応じて執った筮では、実のところ、誤占と思えるような経験が今までに唯の一度もないのである。
それに引き替え、興味本位で起こした卦や機械的に立て続けに立卦したような場合では、不応卦の出現率が高いように思う。
昔、易を趣味とした産婦人科医に荻島辰之助(1894~1980)という人が居て、胎児の性別占のデータを取って何度か『易学研究』誌上にて発表されているのだが、加藤大岳先生の回想によれば、的中率は60%程度だったという。
男女の別を見るだけであるから、ヤマ勘でも50%は的中する勘定になるので、60%というのは余りにお粗末な数字であるが、これなど機械的な筮では応卦を得られない好例のように思うし、練習を重ねたからといって誤占を減らせるという訳ではないことをよく物語っているように思われる。
ところで、三変筮における伏卦というものは、占的と対照して時に応じて之を取り上げ、毎度参照するというものではない訳だが、占機を得た場合の得卦においては、伏卦も又取り上げやすいという印象が私にはある。
梅花心易などは此の“占機”を殊に重視する占法であるかと思うが、“占機”を捉えることの重要性は、遍く卜占全般に及ぶと言えるのではなかろうか。
我が広瀬宏道先生は、かつて『易学研究』に寄せられた「半解冗語」の中で、
私、占機と申しますか、それが一番大事だ、と思うんです。占機さえ熟しておるなら、初心であろうと、適切な卦がしめされる、と思いますね。
そこが易のおもしろいといいますか、こわいと申しますか、肝心なところでしょうね。
したがって、その占機をうるためには、めったやたらに占わないことです。サムライといっても、一生白刃をかざさなかった人もいよう、といわれますが、そうむやみと刀はぬくものではありません。
と書かれているが、流石の慧眼と言えよう。
“占機”といっても色々な理解の仕方があるかと思うが、私は一先ず「卦を起こす必然性」とでも定義してみたい。
必然性なしに卦を起こすと不応卦を得やすいということは、不応卦の存在を肯定する占者であれば、誰しも首肯して頂けるかと思うが、私は立卦に必然性がある=占機を捉えた時には、誰しもが或る種の意識状態になって、阿頼耶識だか何だか分からぬが、そういったところに易を介してアクセスすることが出来るのではないかという気がしている。
また、広瀬先生は、先ほどの一文に、
『荀子』の大略篇に「よく易をおさむる者は占わず」とございますが、頂門の一針でしょうよ。
もっともこれは一々卦をたてないで、いまの状態はこの卦・この爻にあたる、と自得するといえないでもありませんが、前後の、詩をよくする者は説明しない、礼をよくする者は介添え役にならない、という文脈からすると易をかるがるしくしない、の意としてよいのでしょう。
と続けておられるが、これは実にサラッと書かれているので、どれだけの人が注意を止めたか分からぬものの、大変重要な指摘であると思う。
通常、『荀子』大略篇の此の一文は、義理易的な側面から解釈されることが多いが、先生は、前後の文脈から堅苦しい儒家的な解釈でなく、占機を捉えることの重要性を言ったものだと解しておられるように思われる。
大略篇が最初から『荀子』に含まれていたのかどうかは一先ず置くとして、同様に一応先秦の文献とされているものにも、似たようなニュアンスの文が幾つか登場する。
『左伝』の昭公十二年の条に、「夫れ易は以て険を占ふべからず」とあり、同じく『左伝』桓公十一年には「卜は以て疑を決す。疑はずんば何ぞ卜せん」とあって、何れも甚だ儒教的な解釈がなされているようであるが、これは何れも占機を捉えることの重要性を言ったものであると私は思う。
始皇の焚書の際、儒書は盡く焼き捨てられたことは有名であるが、易書や農書、医書の類は実用書ということで、焚書を免れたとされている。
しかし、既に諸家の指摘する通り、もし、孔子が易に十翼を附したとする伝説のように、儒教と易とが密接な関わりを持っていたとすれば、いくら実用書とはいえ焚書を免れたかどうかは疑わしい点があり、上記の文が後人の竄入でなかったとしたら、やはりそれは儒家的な解釈を附すべき文ではなく、実占上の一つの秘訣めいたものが吐露された一文ではなかったかと私は思うのである。
立卦の必然性と誤占との関係については、『易学研究』の記載にも、幾つか示唆に富む箇所を見出すことが出来るようだ。
たとえば、加藤大岳先生が、「易占法講座(111)」において、天候占を論じた際、
自他の占例を検しても、或る特定の目的があっての天候占に的占が多いのに比べて、天候だけを主目的としたものに余り好占がないのは、このためであるかも知れず、こんなところにも、易占手法の一つの秘密があるのかも知れません。
と言っておられるのは極めて興味深いし、岳門中、“爻使いの名手”として知られた林成光先生は、「実占問答」において、「林さんは昔から誤占がなかったのですか」という問いに対し、
そんな事はありませんよ。
誤占は数知れずでした。
角力だの野球だの勝敗の占は今でも誤占しますよ。
ですけれど幸と客に対しては無難でした。
やはり真剣味が違うのでしょうね。
と答えている。
「真剣味が違うのでしょうね。」と、簡単に片づけられているのは聊か残念であるが、占機というのを考える時、大きな示唆を与えてくれる一文ではないかと思う。
私のような者でも、具体的な求占者の依頼に応じて執った筮では、実のところ、誤占と思えるような経験が今までに唯の一度もないのである。
それに引き替え、興味本位で起こした卦や機械的に立て続けに立卦したような場合では、不応卦の出現率が高いように思う。
昔、易を趣味とした産婦人科医に荻島辰之助(1894~1980)という人が居て、胎児の性別占のデータを取って何度か『易学研究』誌上にて発表されているのだが、加藤大岳先生の回想によれば、的中率は60%程度だったという。
男女の別を見るだけであるから、ヤマ勘でも50%は的中する勘定になるので、60%というのは余りにお粗末な数字であるが、これなど機械的な筮では応卦を得られない好例のように思うし、練習を重ねたからといって誤占を減らせるという訳ではないことをよく物語っているように思われる。
ところで、三変筮における伏卦というものは、占的と対照して時に応じて之を取り上げ、毎度参照するというものではない訳だが、占機を得た場合の得卦においては、伏卦も又取り上げやすいという印象が私にはある。
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