練習占不要論
- 2017/04/29
- 17:52
不応卦の存在を認め、必然性の有無がその表出に重要な関わりを持っていると仮定すれば、妄りに卦を起こすのは慎むべきであるという結論が導き出されよう。
実際に、名占家と呼ばれるに相応しい易法家には極端に卦を起こす回数の少ない人が多いように私には思われる。
私が親炙した方では、御法川先生がそうであるし(先生は百占百中であるというが、地山謙を地で行くような先生の言に偽りがあるとは私には到底思われない)、加藤大岳先生にしても、客を取っての鑑定は基本的になさっておらず、『易学研究』の読者の為に執る大勢占の他は、あまり筮を手にされることはなく、何か困ったことがあってご自身のことを占われる時には、まず其の事柄を占うことに一万円くらいの値打ちがあるかどうか自問自答してから判断されるというのを何処かで読んだ記憶がある。
そういう点で、私など、これまで妄りに卦を起こすことが余りにも多過ぎたのではないかと、自分自身の易占史を振り返って反省するところが多い(これは私がチキン野郎で何でも易に尋ねてからでないと不安に駆られるというところから来てもいるのだが)。
不必要に卦を起こすという点では、所謂練習占の類も本当の上達という観点からは有害無益なものではなかろうか。
スポーツの試合や選挙、試験的な株や為替の相場占なども、必然性が前提にあって執る筮ではないので、不応卦の表出率は目立って高いという実感がある。
スポーツは私の場合、種類を問わず全く観戦することがないので、一度も経験がないが、選挙占ではこれまでのところ一勝二敗程度の成績で全く振るわない。
また、不応卦における誤占の場合、厄介なのは、その後の検証作業である。
不応卦であるということに気付かず検証を行うと、卦爻を彼是いじってみて、卦爻の方を結果に合わせようとする心理が働く。
こうなると、畢竟どうとでも読めることになる訳だが、かかる作業を繰り返す内に、卦の読み方が徐々に素直さを欠いたものになって行く上、読卦に優柔不断さが常に付きまとうようになって来る。
塚原栄一先生などは、易の勉強を始めて間もない初心者に天候占を勧めておられたというが、こういう占機を得にくい占的は初心者に適切と言えるだろうか。
卦を読み、求占者に進むべき道を指し示す際、説得力を持つのはやはりこちら側の態度、易への全幅の信頼のもとに鑑定結果を示すことであり、ただでさえ誤占の多い練習占などを積み重ねると、自身の腕前だけでなく、易そのものへの信頼も又揺らいで行くことになると私は思う。
賛否両論あろうかと思うが、私は練習占は不要、日常必要に応じて占するだけで十分であると主張したい。
実際に、名占家と呼ばれるに相応しい易法家には極端に卦を起こす回数の少ない人が多いように私には思われる。
私が親炙した方では、御法川先生がそうであるし(先生は百占百中であるというが、地山謙を地で行くような先生の言に偽りがあるとは私には到底思われない)、加藤大岳先生にしても、客を取っての鑑定は基本的になさっておらず、『易学研究』の読者の為に執る大勢占の他は、あまり筮を手にされることはなく、何か困ったことがあってご自身のことを占われる時には、まず其の事柄を占うことに一万円くらいの値打ちがあるかどうか自問自答してから判断されるというのを何処かで読んだ記憶がある。
そういう点で、私など、これまで妄りに卦を起こすことが余りにも多過ぎたのではないかと、自分自身の易占史を振り返って反省するところが多い(これは私がチキン野郎で何でも易に尋ねてからでないと不安に駆られるというところから来てもいるのだが)。
不必要に卦を起こすという点では、所謂練習占の類も本当の上達という観点からは有害無益なものではなかろうか。
スポーツの試合や選挙、試験的な株や為替の相場占なども、必然性が前提にあって執る筮ではないので、不応卦の表出率は目立って高いという実感がある。
スポーツは私の場合、種類を問わず全く観戦することがないので、一度も経験がないが、選挙占ではこれまでのところ一勝二敗程度の成績で全く振るわない。
また、不応卦における誤占の場合、厄介なのは、その後の検証作業である。
不応卦であるということに気付かず検証を行うと、卦爻を彼是いじってみて、卦爻の方を結果に合わせようとする心理が働く。
こうなると、畢竟どうとでも読めることになる訳だが、かかる作業を繰り返す内に、卦の読み方が徐々に素直さを欠いたものになって行く上、読卦に優柔不断さが常に付きまとうようになって来る。
塚原栄一先生などは、易の勉強を始めて間もない初心者に天候占を勧めておられたというが、こういう占機を得にくい占的は初心者に適切と言えるだろうか。
卦を読み、求占者に進むべき道を指し示す際、説得力を持つのはやはりこちら側の態度、易への全幅の信頼のもとに鑑定結果を示すことであり、ただでさえ誤占の多い練習占などを積み重ねると、自身の腕前だけでなく、易そのものへの信頼も又揺らいで行くことになると私は思う。
賛否両論あろうかと思うが、私は練習占は不要、日常必要に応じて占するだけで十分であると主張したい。
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