コメント
繫辞上伝第十章
突然失礼します。いつも楽しくお読みしておりますが、少し感じるところあり、コメントさせて頂きます。
こちらのご記載はもっともですが、しかしながら、繫辞上伝第十章
「君子の将に為すあらんとし、将に行なうあらんとするや、焉に問いて以って言う。その命を受くるや響のごとし・・・云々」
とあるように、己を占い正し続ける、ということが筮事の基本であるのは疑い得ないのではないかと思います。
仰るように自己の占筮は最も難しいことではありますが、そこで得た転迷開悟以外に、いかなることも拠って立つものにはならないのではないかと、こう愚考しております。
こちらのご記載はもっともですが、しかしながら、繫辞上伝第十章
「君子の将に為すあらんとし、将に行なうあらんとするや、焉に問いて以って言う。その命を受くるや響のごとし・・・云々」
とあるように、己を占い正し続ける、ということが筮事の基本であるのは疑い得ないのではないかと思います。
仰るように自己の占筮は最も難しいことではありますが、そこで得た転迷開悟以外に、いかなることも拠って立つものにはならないのではないかと、こう愚考しております。
Re: 繫辞上伝第十章
コメント有難う御座います。
また、いつも拙ブログをお読みくださっているとのこと、厚くお礼申し上げます。
ご指摘の件ですが、繋辞伝は十翼の中でも恐らくは成立の新しい部分で、かつ、占筮について言及しつつも儒家思想が濃厚に漂う文献です。
繋辞伝によって本来占いのテキストであったものが儒の経書に仕立て上げられるわけで、内容も道義的です。
引用なさった節が自分自身を占うことを言っているのは疑い得ませんが、それはあくまでも繋辞伝の著者(複数の人が書き継いだことは明らかなので、正確にはくだんの一節を書いた人)がそう考えたにすぎず、筮事全般に十翼の考え方が適用できるとまでは言えないのではないでしょうか。
そもそも、繋辞伝は儒教的な修己治人の考え方が端々に見えておりますが、本来周易そのものは儒教とは無関係なものだった訳ですから・・・。
ただ、私自身、例えば今後の指針や方針といった事柄を占うことはしばしばあり、そのような時には適切な卦爻が示されているという手ごたえを持っています。
そういう場合は、自分自身のことを占うといってもそれほど欲や金銭的なものが絡まない占題ですから。
ですから、「自己と他者」で私が書いた内容と、易小人様が引用された繋辞伝の一節は取り立てて矛盾するものではないというのが私の立場です。
私が書いた例と繋辞伝の説くところとは、自分を占うと言ってもニュアンスはかなり違います。
余談ですが、これまでの経験では、転職の類の占で手痛い目にある人が多いように思いますね。
何はともあれ、今後とも蒼流庵随想を宜しくお願い申し上げます。
また、いつも拙ブログをお読みくださっているとのこと、厚くお礼申し上げます。
ご指摘の件ですが、繋辞伝は十翼の中でも恐らくは成立の新しい部分で、かつ、占筮について言及しつつも儒家思想が濃厚に漂う文献です。
繋辞伝によって本来占いのテキストであったものが儒の経書に仕立て上げられるわけで、内容も道義的です。
引用なさった節が自分自身を占うことを言っているのは疑い得ませんが、それはあくまでも繋辞伝の著者(複数の人が書き継いだことは明らかなので、正確にはくだんの一節を書いた人)がそう考えたにすぎず、筮事全般に十翼の考え方が適用できるとまでは言えないのではないでしょうか。
そもそも、繋辞伝は儒教的な修己治人の考え方が端々に見えておりますが、本来周易そのものは儒教とは無関係なものだった訳ですから・・・。
ただ、私自身、例えば今後の指針や方針といった事柄を占うことはしばしばあり、そのような時には適切な卦爻が示されているという手ごたえを持っています。
そういう場合は、自分自身のことを占うといってもそれほど欲や金銭的なものが絡まない占題ですから。
ですから、「自己と他者」で私が書いた内容と、易小人様が引用された繋辞伝の一節は取り立てて矛盾するものではないというのが私の立場です。
私が書いた例と繋辞伝の説くところとは、自分を占うと言ってもニュアンスはかなり違います。
余談ですが、これまでの経験では、転職の類の占で手痛い目にある人が多いように思いますね。
何はともあれ、今後とも蒼流庵随想を宜しくお願い申し上げます。